母の葬儀は思っていたよりも大変だった。
僕は高校を卒業して、東京に出て42年。東京での葬儀はもちろん、北海道や長野でも参列した。
シンプルなこちらの風習に慣れていたため、実家での風習やしきたりは、わからない事だらけだった。
聞けば良い。と言われたが、どこをどう聞けば良いのか?さえわからないので聞き様もなかった。
母の気持ちを考え、ここは外せない。というところはちゃんとしたつもりだ。
東海地方の冠婚葬祭は、お金がかかる。と言われる意味がよく分かった。
それ自体、その地域の風習なので良いも悪いもないが、一体誰のための葬儀なんだろう?
と思う場面が多々あった。
母の遺骨と共に、東京に戻った僕は、やらなければならない事だらけだった。
コンサートの宣伝、告知、集客。
ストリングスのアレンジ。
ストリングスは、当初3人で決まったが、音楽的にはカルテットが良いに決まってる。
予算が足りない。このチケット料金では、赤字は必須だったが、覚悟を決めて4人にした。
ところが、アレンジする時間が圧倒的に足りない。
弦を入れる予定の曲は17曲。
もっと早く、アレンジに取り掛かっていればよかったのだが、母がこうなる、なんて予想は立たない。
焦って、クオリティの低いものは作れない。ただ和音作っただけの譜面は書きたくないし、
わざわざ4人も呼んでおいて、そんなことはしたくない。
ここは、仲間の力を借りよう。
映画音楽の作曲家であり、友人の寺嶋民哉くんと、仕事で一緒の古垣未来さんに2曲ずつお願いした。
残りの13曲は、自分で書いた。
集客のための宣伝や売券も、できる限りのことをした。
お金は後でいいから!と言って、チケットを渡したりもした。(みなさんありがとね)
母の四十九日法要の準備もあった。
母の遺影の前で、母に話しかけている時でも、頭のどこかに焦る気持ちがあった。
本当に悲しんでいる暇はなかった。
リハーサル日の(6/29.30)の1週間前には、奏者に譜面と音源を渡さねば。
5月、6月はそんな日々が何日も続いた。