書籍紹介:『ベトナム戦争――誤算と誤解の戦場』 | 奈良の石屋〜池渕石材のブログ

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本日は書籍紹介をいたします。

今回取り上げるのはこちら、

松岡完『ベトナム戦争――誤算と誤解の戦場』中公新書、2001年

 

 

 

 

ベトナム戦争について概観した一冊です。

ベトナム戦争というと、何と言っても超大国アメリカにとって衝撃的な敗北であり、一般にベトナム戦争について語られるときは、どうしてもアメリカ視点を採ることが多いように思われますが、本書は同時にベトナム側はどのような事情や利害関心から戦っていたのか、という要素にも分厚く記述を割いているのがひとつの特徴と言えるでしょうか。

 

中身はシンプルな通史ではなく、各章ごとにテーマを絞った編集がなされています。

たとえば戦争の経緯を概説する章、ベトナムと中国の関係に焦点を合わせた章、南ベトナムを中心に描いた章など、章によっていろいろな角度からこの戦争を眺められるような作りになっています。

その分、同じ内容が別の章で繰り返されたり、また新しい章に入ると時系列的に戻ったりするので、頭を切り替える必要があったりと、直線的に読めるような構成になっていないところに読みにくさを感じる方もあろうかとは思いますが、ベトナム戦争をめぐるいろいろなテーマはクリアに浮き彫りにされていると感じました。

 

一読して印象深いのは、この戦争に関わるアクターの複雑な錯綜ぶりですね。

基本的には、ホー・チ・ミン率いるベトナムの革命的・民族主義的勢力が、初めは植民地を維持しようとするフランス、次いで共産主義の伸張を食い止めようとするアメリカに対峙するという構図なわけですが、実はベトナム統一後の主導権をめぐって南ベトナムの解放戦線と北ベトナムの間に対立があったり、南ベトナムの傀儡政府とアメリカの間にも緊張関係があったりと、一筋縄ではいかない様相が興味深いです。

たとえば北ベトナムを支援する共産勢力内での綱引きについて叙述した箇所を少し引用します。

 

「ハノイは1960年代になるとソ連の対米共存政策を批判、再び中国寄りに転じる。しかし完全にソ連を袖にしたわけではなかった。北ベトナムは資本主義世界の超大国アメリカと戦いながら、二つの社会主義大国の狭間で懸命の綱渡りを演じ、両者の仲介役として社会主義陣営の団結維持に尽力していたのである。ソ連や中国の駐ハノイ大使館で宴席が開かれると、ベトナム人たちはぴったり同じ時間だけ出席していた。

 中国は1965年、北ベトナムがソ連の援助を断れば中国が全面支援すると申し出た。1965年以降、極秘のうちにのべ32万人の部隊を「入越」させている。ごく少数、北朝鮮空軍もベトナム戦争に参加したといわれる。だが北ベトナムには地対空ミサイルなどが必要だったから、ソ連の援助もあきらめるわけにはいかなかった。ソ連のレオニード・ブレジネフ書記長も中国への対抗意識から、ベトナムに志願兵を送ってもよいと示唆している。

 1962年のキューバ・ミサイル危機で、北ベトナムは世界平和を守ったとしてソ連を賞賛し、フィデル・カストロを支持しアメリカに避難を浴びせることで中国にも配慮した。1963年の部分的核実験停止条約については調印を求めるソ連と、拒否を要求する中国の間で苦悩した結果、ソ連を名指しせずに条約だけを非難した。しかし結果的に中ソ双方の苛立ちを強めただけだった。

 中ソはたがいがベトナム解放の戦いを妨害していると非難しあった。北爆が本格化した時、ソ連がベトナム支援のための共同行動を中国に呼びかけたこともあったが、無駄だった。中ソ対立はベトナムの抗米救国戦争をかえって阻害したのである。ただ冷戦構造の中で、しかも世界の革命運動の盟主の座を争う中ソはいずれも、北ベトナム支援をやめるわけにはいかなかった。その意味では両国ともハノイに体よく利用されたといえるかもしれない」

(132-133)

 

平沼騏一郎ではありませんが、世界の情勢は複雑怪奇ですね。

その他、ベトナム戦争がアメリカ社会にどのような爪痕を残したか、なんてことはしばしば語られることですが、東南アジア諸国連合の結成など、ベトナム戦争がまさにその舞台となった東南アジアのその後に持った意味についても、丁寧に解説されていて勉強になりました。

 

ベトナム戦争については本当に多くの本、研究がありますが、概説的な入門書としてはとても手に取りやすいものと感じ、よい読書になりました。