書籍紹介:『近代日本一五〇年――科学技術総力戦体制の破綻』 | 奈良の石屋〜池渕石材のブログ

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本日は書籍紹介をいたします。

今回取り上げるのはこちら、

山本義隆『近代日本一五〇年――科学技術総力戦体制の破綻』岩波新書、2018年

 



明治維新以降の近代日本において、科学技術はどのような社会的役割を帯び、それは現在の観点からどのように見直されなければならないのかを論じた一冊です。

著者の山本氏は元東大全共闘の代表にして、『磁力と重力の発見』や『一六世紀文化革命』など評価の高い本も書いておられる、在野の科学史家ですね。

 

筆者が近代日本と科学技術の関係を問う上でひとつの鍵となるのが、サブタイトルにもある「総力戦体制」です。

総力戦とは言うまでもなく、第一次および第二次の世界大戦で現出した、戦場の前線のみならず銃後まで含めて、国民社会すべてが戦争遂行に投入される、国家の全力を尽くした戦争のことです。

そこでは通常の日常生活のために作り上げられた社会機構の全体が、戦争のために徴発、最適化され、生活のベースとなる社会編成から人間に意識に至るまでが作り変えられることになります。

 

筆者が指摘するのは、明治維新以後、欧米列強にキャッチアップするための旗印となったのが「科学技術」であり、近代日本は科学技術にアプローチする人々の意識改革から着手していったということ、それは日本が帝国主義的な戦争国家となるにつれて社会のすべてを巻き込むものとなってゆき、第二次大戦の総力戦体制期にその頂点に達する、そしてそこで潰えたわけではなく、戦後日本社会の出発も敗北の影で存続した総力戦体制を踏まえてのものであった、ということです。

 

こういった議論は、近代日本の歩みを総括する論点としては、一見したところありがちのように思えますが、科学技術信仰と日本の統治体制との結託ぶりを徹底的に追っていく筆者の視点はかなり独自なもののように感じます。

第二次大戦での敗北を「科学戦での敗北」とする言説が、戦争の中でも対米戦の局面しか意識しないものであり、中国をはじめとする対アジア戦争を捨象すると同時に、戦後の「科学立国」というスローガンがあたかも科学=平和のような見た目を与え、国策に積極的に協力してきた科学者たちを、無反省なまま免罪することになった、と指摘する筆者の舌鋒は実に鋭いものがあります。

少し引用します。

 

「科学者としての戦争協力の責任の自覚や反省を欠いた形でこのように「科学技術の不足」「科学技術の立ち遅れ」という形で敗戦を総括すれば、そこから導かれる方針は、「科学技術の振興」ということにならざるをえない。東京帝大工学部出の電気工学者・八木秀次は、戦争中に東京工大の学長をつとめ技術院の総裁におさまり「戦前の軍官産学のネットワークの要に位置していた有力者」であったが、敗戦後に「日本は科学戦で負けたのだから、これからは科学を振興して平和国家を建設しよう」と語っている。「科学振興による高度国防国家の建設」の看板を「科学振興による平和国家の建設」に差しかえただけで、科学者は今までどおり研究にいそしむことができたのである。1946年5月に創刊された科学雑誌『自然』の「創刊の言葉」に、「日本の再建は、科学の振興を俟たずして期待しえない」とある。戦争中は原爆研究に従事していた仁科芳雄が同号に掲載したエセー「日本再建と科学」は、「科学は真に救国の具である」とあり、「我が国再建の基礎は科学によつて築かるべきもの」と、ストレートに結ばれている。先の杉靖三郎のエセーにも「今や平和国家を確立し世界文化に寄与すべき秋にあつて、科学立国が叫ばれるのは当然である」とある。

 そして「科学戦の敗北」の責任を軍や政治家の短見や無理解や認識不足に押しつけるならば、科学振興・科学立国の中心的・主導的担い手は、当然、科学者・技術者であるという結論に行きつく。その現実的な内容は、政治的にも経済的にも科学と科学者を優遇せよ、すなわち政治家や財界は科学者の発言をもっと尊重せよ、科学研究にもっと金をかけろという要求にまとめ上げられる。そしてその要求を、科学者のエゴとしてではなく、普遍的な意義あるものとして訴える論理が、科学と民主主義の同等視であった」

(210-211頁)

 

科学が価値中立、それどころか平和に資するものとして振る舞い、その裏で政治権力と結びついて、戦後においても公害、さらには原子力災害を引き起こしていったことも、本書では問われています。

 

結局、科学的であることは、それ自体では進歩や平和や民主主義を担保するものではなく、それをいかに使うかが問題なのだということであり、この当然と言えば当然の認識が不可視化されてしまうメカニズムこそ、本書がテーマにするものだと言えるのではないでしょうか。

地球環境変動も含め、明らかに折り返しを迎えている近代文明をどう見直すか、示唆するところの大きい本でした。