書籍紹介:『神の子 洪秀全――その太平天国の建設と滅亡』 | 奈良の石屋〜池渕石材のブログ

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あけましておめでとうございます。

本年もこれまでと同様、書籍紹介を続けてまいりたいと思います。

とりわけおめでたい本というのを読んでいるわけではありませんが、2024年最初に取り上げる作品はこちら、

ジョナサン・D・スペンス『神の子 洪秀全――その太平天国の建設と滅亡』(佐藤公彦訳)慶應義塾大学出版会、2011年

 

 

 

 

清朝末期の中国を揺るがした大反乱にして一大宗教運動である太平天国についての、イギリス人歴史家による研究書です。

歴史の研究書といっても、その筆致は無味乾燥であるどころか精彩に富んでいて、洪秀全、そして太平天国という運動全体の詳細な伝記と呼んでもいいんじゃないか、といったものです。

 

中国本土では、毛沢東による共産主義革命の成功以来、太平天国は貧民階級による革命的運動の先駆的形態である、という理解が主流だったそうで、日本の研究者もそういった見方に引きずられるきらいがあるようですが、本書は何と言っても西洋人研究者の手になるものですので、太平天国とキリスト教との関係、洪秀全のキリスト教理解はどのようなものだったのかという論点が深く掘り下げられるのが大きな特徴です。

実際、太平天国は拝上帝会という上帝=神を拝跪対象とする一神教活動から開始されたものであり、それは社会運動という側面とは別個に検討されるべきものでありながら、少なくとも日本語で読める文献としては、その点に突っ込んだ良書がこれまではなかなか見当たらなかったようで、そんな空隙を埋める研究書としても本書は評価されるみたいですね。

 

また、当時の清朝は太平天国だけでなく、同時期にアヘン戦争・アロー戦争を強いられるなど西洋列強との外交にも難渋し、まさに内憂外患の状況にあったわけで、中国近代史における西洋との接点はどのようなものだったのか、という問いにも西洋人の視点から触れられていて、読み応えがあります。

19世紀を通じて、列強は徐々に中国への進出を進めていき、日本もそれに乗っかるような形になるわけですが、太平天国が引き起こしていた混乱が香港発展の契機であったと論じられる部分など、本書の中心的な論点とはややズレますが、世界史的な観点から太平天国を眺めたときに興味深いところですね。

少し引用します。

 

「香港は1850年代を通じて、とりわけビクトリア湾に面した地区は急激に発展して繁華な街になりつつあった。それは、1841年の建設以来ずっとつきまとって来た、その将来に対する悲観主義的な見方や、最も初期の西洋人の植民者と兵士たちが熱帯病によって奪い取られた恐るべき犠牲、これらを裏切るかのような発展だった。レッグ〔=スコットランド人牧師〕はこの最近の繁栄の多くが、太平天国と広州付近の秘密社会によって引き起こされた混乱に起因したものだとして、「香港発展の転換点」を1852年と1853年に置いた。これらの年に、富裕な中国人家族たちは、大陸での戦争と混乱を逃れるために、香港に逃げてきた。住宅の需要が増加し、家賃は上昇した。もともとはあまり人気のなかった街路は、人でごった返すようになった。新しい中国人の商会が設立された。この地の商業は発展の推進力を得た。イギリス陸軍工兵隊は規格が整った計画道路、下水道、港湾施設を建設した。植民者は空気を清浄にするために、灌木と竹を植えて林を作った。それにつづいて街路灯と、それと一緒のガス燈火付け夫たち、姿の立派な郵便局――郵便はそこからボンベイからやって来た快速船で運ばれていった――、新たに建てられた教会、しっかと堅固な家々、これらが出現した。これらの変化は新たな植民地にいくらか堂々とした外観を与えた。もっとも旅行者は、ここの家賃と一つしかない良いホテルの値段が高すぎるという不満を抱いたのではあるが」

(374-375頁)

 

いささか余談にはなりますが、太平天国関係の一次史料は大部分が英訳されているのだそうで、しかも最近では漢文が日本人研究者にとっても基本教養ではなくなっていますから、中国近代史研究はむしろ西洋出身者の方がアドバンテージを持っていると、訳者の後書きに記されていました。

グローバル世界における中国のプレゼンスが大きくなるにつれ、その近代史研究の意義もますます増しているとは思いますので、偉そうな物言いになってしまいますが、日本人研究者の奮起を期待したいところですね。

 

ともあれ、その社会的影響から宗教的側面に至るまで、さまざまな点が押さえられて充実した読書の機会を提供してくれる本で、楽しめました。