※注 今回取り上げる内容に関しては細心の注意を払っていますが筆者の知識不足、記憶違いにより誤りの記載の可能性があります、気づき次第お詫び兼加筆修正を行わせていただきます、ご了承ください

 

 

 

今ではゲーム機といえばほぼ”家庭用ゲーム機”のことを指す

言葉ではあるがその流れを作ったのはどのゲーム機なのか

と思うと一番に思い浮かぶのが

 

任天堂から発売された「ファミリーコンピュータ」である

 

 

(画像引用 ウィキペディア参照)


 

前回の記事の内容でも登場したこのファミコン

発売当時の人気も勿論のこと

なぜファミコンがここまで家庭用ゲーム機としての

存在として大きかったのか、というのを話したい

 

このファミリーコンピュータ(通称ファミコン)は

1983年7月15日に任天堂より発売された

家庭用ゲーム機である

 

 

そもそも家庭用ゲーム機というものはファミコンが発売される前にすでに登場はしていたが

ゲーム機単体で完結するものが多く

カートリッジの概念がないものや

ゲームとしての基礎であるCPUがハード側ではなくソフト側に付いているもの

そしてコントローラがなく本体付属のボタンを使う等

 

ゲーム機としてメーカー側がまだ模索している状態であり

まだ家庭用ゲーム機の礎を築く途中だった

 

ファミコンを紹介する前にざっと各メーカーが当時発売した

ゲーム機を記述してみる

 

(引用情報 DVD「ファミコンのビデオ」参照)

 

 

今見るとゲームメーカーというよりは玩具メーカーが

作っていた印象

そもそもゲーム機というものがおもちゃの括りの一つ

という位置付けだった

更に過去に遡ってゲーム機を紹介したいがキリがないので

割愛する

 

表を見てみるとファミコンの目立った所はまず金額

他メーカーと比べてもゲーム機の中では安価で性能(CPU)も

比較的平均値になっている

 

表の段階で他メーカーのゲーム機よりも

任天堂のゲームによる入れ込み具合がわかる

しかし発売された1983年ごろは実のところ

今思い浮かべるようなメガヒットとはいかず

当時のゲーム機として”は”売れている、といった状態だった

 

ファミコン発売時のローンチタイトル3作

ファミコン発売と同時販売(1983年7月15日)

 

ドンキーコング

 

 

ドンキーコングJr.

 

 

ポパイ

 

 

当時はアーケードで稼働していたゲームを移植したものが発売されその後

囲碁、将棋、ベースボール、サッカーなど

様々なゲームソフトが登場しソフトのラインナップが

増えていった

 

 

そして1985年にキラーソフトとして

「スーパーマリオブラザーズ」が登場する

 

 

このソフトの登場によりファミコンの需要が爆発的に増え

どこのゲームショップ、おもちゃ屋さんに行っても「売切」

といった状態が相次ぎ一大ムーブメントを起こした

 

ゲーム内容は言わずもがな

 

 

このスーパーマリオブラザーズの大ヒットによって

家庭用ゲーム機の位置はすでに固まったのかもしれない

ファミコンソフト本数は発売から12年後の1995年時点で

日本国内で1,047本にわたる

この本数は当時のゲーム機としては

異例の数でそれほど任天堂以外のサードパーティーメーカーの参入が多かったかわかる

 

この大ヒットの影響か任天堂以外のメーカーも

家庭用ゲーム機制作の参入が多く起こり

ゲームユーザーの確保に奮起することになるが

それはまた別の機会に書きたい

 

このファミコンの存在がなければ家庭用ゲームの歴史は

現在とはまた少し違った結果になっていたかもしれない

 

ここまでファミコンを猛烈に推してるように見えるが

筆者はファミコンは好きなのはもちろん

ゲーム全般が好きな所存です

 

ファミコン全盛期のこの後

NECから発売される次世代機「PCエンジン」

 

 

 

SEGAから出るSGシリーズの後継次世代機「メガドライブ」

 

 

ファミコンは約5年後に発売される高スペックゲーム機達と

激闘を繰り広げることになる

それはまた別のお話しに……。

 

 

P.S.現在2024年7月11日に執筆中だが

任天堂switchで

Nintendo World Championships ファミコン世界大会

が2024年7月18日に発売されるということで非常に興味深い

というか多分買ってしまう

 

任天堂は現在でもレトロゲームを脚色し現代風にアレンジし

現ユーザーも遊べるように工夫し、窓口を広げてくれている

その姿勢は筆者はとても好きだ

 

昔の時代のゲームが今でも気軽に手に取って遊べる環境は

とても幸せである

 

大人と子供、親と子が一緒のゲームで一喜一憂する

そんな環境になったらと思うとワクワクとニヤニヤが

止まらない

昨今TVゲームは老若男女誰もが気軽に遊べる媒体になり

今日まで様々な進化をしてきた

 

TVゲームが一般普及した年

具体的に上げると任天堂から発売された家庭用ゲーム機

 

「ファミリーコンピュータ」

 

この通称ファミコンが発売された1983年から1985年にかけて一般家庭には馴染みがなかった

”家にゲーム機がある”という状況が加速度的に普及されていった

 

1980年代以前にも厳密に言うとゲーム機の存在があったが

遊ぶ為にはゲームセンターへ赴く必要があった

※LSIゲームなどがあるが割愛

 

しかしその”ゲーセン”には純粋にはゲームを遊ぶにはあまりにハードルが高く

子供たちが安全に遊ぶといったことはほぼできず

ゲーセン内には俗に言う不良(ヤンキー)、チンピラ、ゴロツキとあらゆる非行が詰まった箱のような存在だった

 

しかも店の営業時間は24時間、店内には一切店員がいない時もあるという

確かに治安的にはとても不安が残る営業スタイルであった

 

その為このファミコンという存在が世に出てから

子供がTVゲームで遊ぶという概念が生まれた時代といっても過言ではないのかもしれない

 

 

話を戻すが

 

1983年から2024年現在までTVゲームは現在進行形で

歩みを続けている

年数でいうと40年ほど

これを見るとあながちゲームの歴史もなかなか根深くなっているのかもしれない

 

 

そこで筆者に一つの疑問が生まれた

ゲームはゲームでも今と昔のゲームでは楽しみ方のベクトルは一緒なのだろうか?と

 

今はゲームが趣味という方々はとても多く誰もが何かしらの

媒体(スマホ等)でゲームを遊んでることが多い

 

それに伴いゲームを遊んでいる人はいるが

ゲームのジャンル、種類などは多く

同じゲームを趣味にする人が相成っても

遊ぶゲームが違く、話しが合わないこともある

 

ゲーム内でもジェネレーションギャップが発生している

筆者もそれを感じることが多々ある

レトロゲーム、という観点から見ると

自分が生まれる前のゲームを遊ぶ、という機会は

正直あまりないだろう

何かしらのキッカケなどがないと遊ぶことは難しい

当時のゲーム機を手に入れるというハードルの高さも

もちろんある

 

それは逆もありえて

当時のファミコン世代(40代~)が新しいゲームを始めることが

難しい事例もある(システムの複雑化、導入までの長さ等)

 

ゲームという存在が一枚岩ではないことがわかる

 

 

個人的にはレトロゲームの括りは現在の動画配信サービスの

影響がとても大きく自分自身が知らないゲームを知るキッカケとしてはとても便利な存在になっている

 

レトロゲームの世代ではない方が動画配信を通じて

知り、興味を持ち

現在でも続いているナンバリングタイトルの

レトロゲームがあるならば触ってみようと

思えることは個人的にとてもうれしいし

筆者もそうありたい

 

それに加え、順番はどちらが先かはわからないが

ゲームを提供していただいてるメーカーも

レトロゲームを復刻で販売したり

現在のゲーム機でもレトロゲーが遊べる(コレクション等)

などといった形態を形成し

 

若い世代にもゲームのルーツを知る機会を与えてくれている

 

しかし一つ問題点を挙げると

レトロゲームは昔の仕様上とても難易度が高かったり

ゲーム機のスペック的に今では考えられない状況下で

プレイをしなければならないことが多い

(セーブ機能がない、やり直し位置が悪い、一度ミスをすると取り返しがつかないアイテム等がある、etc)

 

その為レトロゲームは本来の遊び方とは少し違う

 

 

”レトロゲームをプレイしている人自身を見る”

 

 

ことが昨今でのレトロゲームの楽しみ方になっている

のではないか、という結論に至った

 

筆者自身も一人でレトロゲームをやる機会はあまりなく

友達と集まった時に一人がレトロゲームをプレイし

その他のメンツはそれを眺めながら談笑をする

 

といった現在のレトロゲーム配信などでよく見る光景に

近い状態になっている

 

当時の人達からすると邪道な楽しみ方と捉えられるかもしれない

が、現在でも20~30年以上前のゲームプレイを見れる

ということはゲーム好き冥利に尽きると個人的には思うので

 

ゲーム配信でそういった昔のゲームがフューチャーされることが非常に喜ばしいのではないのか

 

もちろん

 

やりたいゲームをやるというのが楽しむ上では

大正解だが、もしこの記事を読んで自分の年代と違うゲームを遊べる機会があるのならばぜひ触ってみることが

新しい遊びの発見につながり、ゲームを通じて

新たな繋がりを見つけられればゲームが趣味ということを自負できるのかもしれない

 

追伸:筆者も新しいゲームに懐疑的な瞬間があったりするので

そういうのも含めてあえてやらないジャンルなどを開拓し

新しいゲームの考え方や、若い世代に教えを乞う姿勢を

形成していきたい

携帯電話、スマートフォンの普及が一般的な現代において

SNS(ソーシャルネットワーキングサービス)の存在は

触れない人はいないほどの影響力がある

 

近代のテレビに代わる情報ツールでもあり

自身の趣味に関する発信源、ニュース、企業の宣伝効果など

SNSの効果は様々である

 

それと同時にSNSはそれまでの娯楽媒体としては非常に

依存性が高い存在でもあると考えられる

 

現に筆者も現在X(旧Twitter)を継続しているが

SNSに触れていない時分と比べるとその影響力は凄まじく

暇があればXのアプリを開き特に理由のない閲覧を行っている

 

だが最近そのSNSを眺めるといった行動に違和感

それと危機感を覚え始めたのである

まず違和感についてはSNSはインターネットによる

情報提供ツールとしても存在しているのだが

その情報に偏りを覚える時がある

 

そこで今回はX 旧Twitterに限りだが

筆者を思ったことを述べたい

 

理由は筆者の調べる対象を図書と

インターネットを使った場合と

SNSのみに絞って検索を行った際、結果がかなり異なった

というのがあった

 

X(旧Twitter)の日本人ユーザー数は2021年時点で

5000万人を超えていると言われている

ただこれはあくまでつぶやきをしているユーザーというわけ

ではなく全体の存在するアカウント、での計数である

 

ただつぶやきを行っているのが例えば5分の1の1000万人

が何かしら書き込みをしていると考えてみると

X(旧Twitter)の検索に関する結果に違和感をどうしても

感じてしまう

検索結果のヒット数が非常に少ない場合が多い

これは筆者の検索対象が非常に需要の少ない内容の

可能性ももちろんあるのですべてにおいて

言えるわけではないが

 

検索エンジンがどういう仕組みで働いているのかは

筆者はプログラムには疎い為、詳細はわからないが

少なく見積もっても1000万人のつぶやき

それも日を重ねるごとにつぶやきが増える状況を加味しても

あまりにも少ない結果だと思えた、偏りがある

それが筆者の感じた違和感である

 

それともう一つの感情としての危機感

こちらに関しても前述した違和感と同じく

自身の受け取る情報源、それの偏りを助長されているように

感じる

 

少し話を変えるが

テレビという存在は”受動的”に情報を捉えるツールだと

筆者は考えている

それに対してインターネットでは”能動的”に自分が欲する

情報を集めるツールだと昔は思っていた

趣味によるインターネット検索はそのイメージが特に

強かった

2000年代のインターネットのイメージがそれにあたる

 

しかし現代におけるSNSという存在はインターネットの中でありながら情報は”受動的”に捉えることが多い印象である

もちろんそれはSNSの設定などを自分でいじれば

そういう流れが変わるのかもしれない、が

デフォルトでの状態ではあまり恩恵を感じない

 

正直を言うとインターネット検索自体も2000年代と比べると

仕様が変わったのか検索内容のヒット件数が以前よりも

少なくなったと感じている、それに関しては

今回の書いている内容とは大きく逸脱するのではぶく

 

話を戻すとその危機感というものはテレビ以上の偏った思想

情報などが企業、個人関係なく注目さえされれば

オススメ等のリストに上がるといったことが筆者が危機感を

覚えた内容であり

それを恐怖している自分がいた

テレビに限って言えばテレビ局側が

「この情報を流したい」

「このジャンルのこの番組を流したい」

「この流れでこういうタレントを使って視聴率を取りたい」

といったテレビ局の明確な意識があるが

企業と個人が入り混じったSNSの場合ではこうはいかず

それをオススメする基準も不明だ

 

もちろんそれは思い過ごしの可能性もあり

筆者が単純にSNSの扱いが下手、ということもある

 

しかしこの現代のSNS、人の思想を増大させるツールとして

個人がただ外で発する言葉よりもとても強く作用していると

考えられる場合、拡声器のようなものだと感じた

 

ここまで言うとSNSがまるで悪のツールというような

言い方ではあるが必ずしもそうではなく

自分が知らない有益な情報を与えてくれることも

もちろんある

割合はあるがどんなものでも利点と欠点は存在し

それが人にどう作用していくかは未知数でもある

 

では我々はそのSNSに対してどういう立ち回りを

行えばいいのか、というと

それはもう色々と試し、得をすれば損もする

それを経験しながら自分にとっての最善を尽くす

という終わりのない行動をとっていくしかない

 

というのが筆者の考えであり、持論でもある

 

時代を振り返れば図書の段階で「有害図書」などで

本の情報の段階ですでに有益、有害とみなされ

媒体は同じでも人に与える影響というものは違うもの

という認識はすでにあった

 

それが時代を経て、インターネット、SNSと

様々な媒体になり現在も情報というのは広がっていく

偏りはあるかもしれないがその情報を閲覧し

それを鵜呑みにするのではなく

 

その情報を閲覧し、「自分」がどう思ったのか

それを世論と照らし合わせ通常なのか異端なのかを

確認し、情報の整合化をしていく作業を怠ってはいけない

 

人が閲覧する情報は人が作っている

その情報が偏っている場合でも

それを把握し、場合によっては訂正し

より正しい内容に変え、歩み寄っていくことは可能だ

 

それがもし昨今話題にもなっている

人工知能( AI :アーティフィシャル インテリジェンス)

によるものが代替していく場合

人は新しい存在に対して認識を改め歩み寄りを

進めていく必要があるかもしれない

 

結局なんにしても歩みを止めてはいけないのである

 

昨今のネット文化での恩恵でゲーム実況というジャンルは

非常に手軽に当時のゲーム内容を知る手段として

ありがたい存在になっている

今では環境的にプレイするのが困難なものなどが

気軽に視聴でき、さながら友人が隣にいながら

それを見るという一部疑似的な

楽しみ方が存在し、一般的になっている

 

 

Twitter内で誰かが発言した内容を引用させていただくと

もとをたどれば自分以外の誰かのゲームを眺めるというのは

昔から存在し、ゲームというものを遊戯としてとらえると

 

将棋 チェス などと言った

 

遊戯をプロ同士の対戦でテレビで放送しているのは

今でいう所のまさにゲーム実況の本質に近いと思った

 

 

もちろんそういったものも細分化され

ゲームプレイ自体が重要なもの(ゲームスキル)

ゲームを行う人物が重要なもの(プレイヤーの人柄等)

別々のコミュニティでのコラボ等

 

様々な形態が存在し現在のゲーム実況が在る

 

この状況は非常に喜ばしいことであり

自分が普段生活しているだけでも到底知りえない貴重な

情報として視聴することが可能になり

知識の幅が増え、視野がグワッと広がる感覚がある

 

オーバーな言い方に見えるかもしれないが

ゲーム以外でも物事における”知識”は

自分自身が生活を行っている間には知りえない情報を受ける度に

自分の中にはない知識、思想、感情等が脳内を揺さぶる感覚

を覚える

 

自分の中ではそれほどゲーム、もしくはゲーム実況という

ものは印象強く今では切っても切れない媒体に進化した

と強く思う

 

普段ゲームをやらない人がゲーム実況は見る

というコメントを見た時は

ゲーム実況というジャンルが確立された瞬間に思えた