携帯電話、スマートフォンの普及が一般的な現代において

SNS(ソーシャルネットワーキングサービス)の存在は

触れない人はいないほどの影響力がある

 

近代のテレビに代わる情報ツールでもあり

自身の趣味に関する発信源、ニュース、企業の宣伝効果など

SNSの効果は様々である

 

それと同時にSNSはそれまでの娯楽媒体としては非常に

依存性が高い存在でもあると考えられる

 

現に筆者も現在X(旧Twitter)を継続しているが

SNSに触れていない時分と比べるとその影響力は凄まじく

暇があればXのアプリを開き特に理由のない閲覧を行っている

 

だが最近そのSNSを眺めるといった行動に違和感

それと危機感を覚え始めたのである

まず違和感についてはSNSはインターネットによる

情報提供ツールとしても存在しているのだが

その情報に偏りを覚える時がある

 

そこで今回はX 旧Twitterに限りだが

筆者を思ったことを述べたい

 

理由は筆者の調べる対象を図書と

インターネットを使った場合と

SNSのみに絞って検索を行った際、結果がかなり異なった

というのがあった

 

X(旧Twitter)の日本人ユーザー数は2021年時点で

5000万人を超えていると言われている

ただこれはあくまでつぶやきをしているユーザーというわけ

ではなく全体の存在するアカウント、での計数である

 

ただつぶやきを行っているのが例えば5分の1の1000万人

が何かしら書き込みをしていると考えてみると

X(旧Twitter)の検索に関する結果に違和感をどうしても

感じてしまう

検索結果のヒット数が非常に少ない場合が多い

これは筆者の検索対象が非常に需要の少ない内容の

可能性ももちろんあるのですべてにおいて

言えるわけではないが

 

検索エンジンがどういう仕組みで働いているのかは

筆者はプログラムには疎い為、詳細はわからないが

少なく見積もっても1000万人のつぶやき

それも日を重ねるごとにつぶやきが増える状況を加味しても

あまりにも少ない結果だと思えた、偏りがある

それが筆者の感じた違和感である

 

それともう一つの感情としての危機感

こちらに関しても前述した違和感と同じく

自身の受け取る情報源、それの偏りを助長されているように

感じる

 

少し話を変えるが

テレビという存在は”受動的”に情報を捉えるツールだと

筆者は考えている

それに対してインターネットでは”能動的”に自分が欲する

情報を集めるツールだと昔は思っていた

趣味によるインターネット検索はそのイメージが特に

強かった

2000年代のインターネットのイメージがそれにあたる

 

しかし現代におけるSNSという存在はインターネットの中でありながら情報は”受動的”に捉えることが多い印象である

もちろんそれはSNSの設定などを自分でいじれば

そういう流れが変わるのかもしれない、が

デフォルトでの状態ではあまり恩恵を感じない

 

正直を言うとインターネット検索自体も2000年代と比べると

仕様が変わったのか検索内容のヒット件数が以前よりも

少なくなったと感じている、それに関しては

今回の書いている内容とは大きく逸脱するのではぶく

 

話を戻すとその危機感というものはテレビ以上の偏った思想

情報などが企業、個人関係なく注目さえされれば

オススメ等のリストに上がるといったことが筆者が危機感を

覚えた内容であり

それを恐怖している自分がいた

テレビに限って言えばテレビ局側が

「この情報を流したい」

「このジャンルのこの番組を流したい」

「この流れでこういうタレントを使って視聴率を取りたい」

といったテレビ局の明確な意識があるが

企業と個人が入り混じったSNSの場合ではこうはいかず

それをオススメする基準も不明だ

 

もちろんそれは思い過ごしの可能性もあり

筆者が単純にSNSの扱いが下手、ということもある

 

しかしこの現代のSNS、人の思想を増大させるツールとして

個人がただ外で発する言葉よりもとても強く作用していると

考えられる場合、拡声器のようなものだと感じた

 

ここまで言うとSNSがまるで悪のツールというような

言い方ではあるが必ずしもそうではなく

自分が知らない有益な情報を与えてくれることも

もちろんある

割合はあるがどんなものでも利点と欠点は存在し

それが人にどう作用していくかは未知数でもある

 

では我々はそのSNSに対してどういう立ち回りを

行えばいいのか、というと

それはもう色々と試し、得をすれば損もする

それを経験しながら自分にとっての最善を尽くす

という終わりのない行動をとっていくしかない

 

というのが筆者の考えであり、持論でもある

 

時代を振り返れば図書の段階で「有害図書」などで

本の情報の段階ですでに有益、有害とみなされ

媒体は同じでも人に与える影響というものは違うもの

という認識はすでにあった

 

それが時代を経て、インターネット、SNSと

様々な媒体になり現在も情報というのは広がっていく

偏りはあるかもしれないがその情報を閲覧し

それを鵜呑みにするのではなく

 

その情報を閲覧し、「自分」がどう思ったのか

それを世論と照らし合わせ通常なのか異端なのかを

確認し、情報の整合化をしていく作業を怠ってはいけない

 

人が閲覧する情報は人が作っている

その情報が偏っている場合でも

それを把握し、場合によっては訂正し

より正しい内容に変え、歩み寄っていくことは可能だ

 

それがもし昨今話題にもなっている

人工知能( AI :アーティフィシャル インテリジェンス)

によるものが代替していく場合

人は新しい存在に対して認識を改め歩み寄りを

進めていく必要があるかもしれない

 

結局なんにしても歩みを止めてはいけないのである