忘れることが力を与えてくれることがある。悲しかったことや精神的に打撃を受けたことなどは記憶に深く刻まれ、頻繁に思い出したりして、悲しみなどをよみがえらせるが、月日が巡るにつれて記憶が薄らぎ、やがて忘れることで立ち直ることができる。時間が癒すという現象だ。
悲しかったことなどの記憶が薄らぐのは忘れたからではなく、日々の新たな記憶が上書きされ続けることで悲しかったことなどの記憶が埋没するからだ。だから、長い時間が経っても不意に記憶がよみがえったりするのだが、年月とともに部分の記憶だけが呼び覚まされるようになり、全体像の記憶は次第に薄らぐ。
悲しかったことや辛い体験は、時間が経っても思いだすたびに感情を揺さぶるものであり、さら記憶が新たに構成されたりもする。新たに構成される時には悲しみや辛さなどに反応した感情が付け加えられたりし、記憶が徐々に再構築されていることを意識しない人は、本来の記憶が変わらずに維持されていると思い続ける。
恋愛の記憶も再構築される。別離の苦痛や相手への恨み、喪失感などを別れてからしばらくは強く思い出すだろうが、月日が経つにつれて喪失感や辛さは薄らぎ、やがて新たな恋が始まると以前の恋の記憶は上書きされて埋没する。新たな恋愛が以前の恋愛の記憶を埋没させ、やがて、忘れさせる。
終わった恋愛を客観的に分析して時系列で記憶する人は小説家など以外には少ないだろうから、終わった恋愛の記憶は感情が主体になる。感情は思い出すたびにかき立てられるが、時とともに静まるものでもある。絶対に許すことができない相手がいても、年月とともに感情が鎮まり、忘れることで相手に対する強い感情が抑えられたりする。
戦禍や災害などの記憶も感情に彩られる。それらの記憶の伝承が重要だとマスメディアは主張することが多いが、感情という記憶の伝承は簡単ではない。記録は世代を超えて伝承されるだろうが、体験者の感情を世代を超えて受け継ぐためには、体験者の世代の時代相や社会事情なども理解する必要がある。だが、体験者の感情を普遍的なものであるとみなすことで、感情という記憶を受け継ぐべきだーなどの論は成り立っている。
戦禍や災害などの記憶は記録とともに社会として伝承されるべきものだ。だが、戦禍や災害などの記憶も新たな戦禍や災害などの記憶に上書きされ、古い記憶の伝承は難しくなる。例えば、戊辰戦争や関東大震災の記憶の伝承が大切だーなどと言われても、記録は残っているが、体験者の記憶は失われただろう。諸々のことを我々は記憶し、やがて新たな記憶に上書きされて忘れる。