明日は、午前中から出かけなければならない。
 午後2時から、趣味の歌会仲間と会の運営についた意見交換をしなければならなくなったためだ。わたしは、歌会の進行係をしているため、なんとなく、運営の幹事役になっている。
 長く、趣味の会を続けていくためには、個性の異なる仲間との話し合いが必要になる。歌会のメンバーといっても、私のような初心者もいれば、わたしから見て、歌心のある人、たぶん5年以上短歌づくりをしている人など経験、能力の違いが明確にある。
 だから、一人ひとり参加目的が異なっている。その調整をしてみるわけだ。
 午後から外出するだけではもったいないと思い、歌会の会合場所の延長にある仕事場所に行くことにした。これを午前中にすませ、午後からの会合に行くのである。
 病院外出ではないのがうれしいが、人との関係を維持していく意図が、午前の予定でも、午後の予定にもあるので、心地よい疲労で終われることを願っている。
 東北の地震と津波、さらに原子の拡散が人間に問いかけたことは、人間のきづなと原子力発電の是非出会ったような気がする。
 人間は身近な人間同士の励ましあい、きづなで生きる力を取り戻し、その先を考えて生きようとするのだろう。
 その人間関係を地域で持てなかった人間は、ひとり、孤独の状況で、生きる意志を衰退してしまったのではないか。
 孤独は怖い。こんな怖い要素はないと思う。一人で生きることを決めた人間でも、地震や津波といった予測できない事態に遭遇したとき、原子力発電所の事故により原子の物質が拡散させられている状態に直面したとき、これはひとりでは受け止めることができない、と思う。
 個人の限りある能力で対応できないことに立ち向かえるのは、家族、友人、地域の人々との強い関係だけである。
 孤独は、普段でも怖い。ひとりだけでは生きていけないことを、いままでの災害は教えてくれた。
きづなとは、人と人との普段の話し合い、つながりの中から生まれてくるものであろう。
 人間はだれでも孤独である。人とのつながりがあっても、本質的な孤独を救えるものではない。
ただ、24時間自分は孤独だと思って生きるよりは、昼間の数時間でも趣味を一緒にできる人を持つ、このような働くかけができる人間こそ、孤独社会の生き方として必要になっている。
 多くいる家族とのきづなを失った人は地域社会で、新しい人間関係を作るように努力を切望したいし、わたしはその努力をしている。決してつよいきづなを作ろうとしているわけではない。
 2週間に1度は、だれかと会える、そんな生き方ができればいいのではないか。
高校に入った。夏休みに、ユースホステルの本を買った。鎌倉の紹介があった。
鎌倉なら、泊まる必要はない。一人で計画を立て日帰り旅行を」8月に実行した。円覚寺、鶴岡八幡宮、長谷寺、江の島と歩いた。それが自立した旅行の初めであったと思う。
その後、何度も鎌倉、江の島に行った。
最近、またひとりで鎌倉を歩きたい、江の島をお訪れたいと強く思うようになった。
純粋に鎌倉を訪ねた心のことがよみがえったからだろうか。
中世武家政権、それを支えた禅宗、もう一度自分なりの考えをまとめてみたいと思う。
 人間が人間をいじめる。こんなことが子供の世界、職場であると報道されている。
 いじめる側のことを考える。
 いじめる側の人間は、愛することを知らない、あるいはわからない人間、自分のことしか考えることができない人間。そんなことが頭に浮かぶ。
 自分と人間を愛することを知っていれば、こんなことが起こらないのではないか。
 親は、自分の子供を愛し、愛し続ける。この愛を知らずに育つと、人をいじめるということに優越感と快感を感じる。これが陰湿ないじめ行動を平然と続けられる行動につながる。
 大津の問題が、小中学校の現場を神経質にしている。挙句のはてには、品川の教育委員会はいじめの本人を出席停止の処置ができるとしようとしている。
 教師とはなんなんであるのか。教師は学級の社長である。その社長が破産の事態に立ち入り、最後は制度にすがる。おいおいいい加減にしろよと言いたい。自分の意志で、教師に任用され、日本の未来、児童生徒の成長に関与しようとして採用されたんだろう。
 最新の職業的関心を持っていれば、教師は一人一人の児童生徒の変化はわかるはず。個別の教育はできて当たり前、やって当たり前なのである。
 教師が教師でなくなっていることが、いじめの問題を広げ、教師の使命感を失わせていると、私は考えている。教師は教え、育てるぷプロなんだt。
 今日は、自転車を力いっぱい漕いでも、汗をかかず、足も動いた。
 運動ができる、快適な秋に近づいた日であったのだろう。
 ところが、感情を見せない天気予報士は、明日からまた真夏日に戻るとのたまう。
 天気予報士は、予報に命を懸けず、その日の結果解説に命を懸けている。 
 ともかく、日本は春、命の始まり、、梅雨、命を育む水の恵み、夏、命を育て、太陽の恵みをもたらす、秋、水をもたらし実らせる、冬、寒さを耐えよと悟らせる、そんな季節の移ろいを、われわれに与えてくれている。
 環境破壊をいい加減でやめさせなければと思う。
わたしは、よく時間どおり運行しない中央線とは、50年以上つきあっている。
小学校5年の3学期に北多摩に越してきたが、親が転校させず、渋谷区の小学校まで通学した。
中央線との付き合いの始まりであった。
それ以来、高校、大学通学、会社通勤と長く付き合ってきた。
車両故障、架線故障と1週間に1度は遅延につき合わされた記憶がある。
通勤の時がいちばんいらいらさせられた。
そういえば、数年前からラッシュ時、婦人専用車が始まったが、わたしが小学生のころも婦人子供専用車両があり、1両目に乗って通学できた。

昨年だったか、オレンジ色一色だった車両からシルバーの地色にオレンジのラインが入った車両に順次変わってきた。
変化を受容して生きるのが、歳とった人間の上手な生き方だが、上の写真を撮っておいた。
オレンジ色は人を吸い込む力があるので、中央線は人身事故が多いと聞かされたことがある。

 

 食べ物には好き嫌いがある。
 それでも、生きているうちに好き嫌いをできるだけなくすようにしてきた。
 健康のため、体のためである。
 好きな映画は時代劇、嫌いな映画はホラー。
 一般論で、好き嫌いは言えるが、身近な人間関係だと、好き嫌いを明確には言いづらい。
 この人間の好き嫌いがあるから、自分の周りはうまくいかなくなる。
 わたしは、自分が好きになれば、相手はその好意のオーラによって自分を好きになってもらえると思い、長いこと実践してきた。
 しかし、問題が生じた。
 1対2の場合である。
 2のうちの1が、1を大嫌いになったとする。2のうちのもうひとりが1をいくら好きになっても、嫌いになった1は決して好きにならないのである。
 あああ、この世の中に、何で好き嫌いの感情があるのだろうか。
 8月の外出回数を数えてみた。 
 合計で11回。
 なんと、医者が6回。外出の50%以上が医者であったのだ。
 仕事での外出が1回、姪と食事が1回。趣味で2回。お祝いごとの外出は1回。
 これは、現在の年齢が大きく寄与しているのだろうと、あきらめているが、それにしても多い。
 医者に行きことは、健康状態がすぐれないといえるのだが、多い。
 今日9月上旬にはやばやと医者1回目を記録してしまった。 
 明日も医者。
 はやく、医者外出の生活を変えなければと、思いつつ、悪いことはますます続くのではないかと、思ってもいる。
 この暑さの中、2日続けて雨が降った。
 雨も降り方を忘れたのか、断続的に、降り方は強く、荒々しかった。
 ニュースを見たら、暑さの次は、水不足。
 時間ごとに、困難が続く。
 人はその時代ごとに課題が違ってくる。
 学生のころまでは、困難は成績だった。自分が問題を蓄積していた。
 気楽なサラリーマンになってからは、景気にもてあそばれた。
 それが終わったら、今度は地震だ、原発だ、環境だになった、 
 生きている限り、課題、困難は続く。
 わたしの人生訓である。
 松川事件のことを知りたくて、大学生の時に広津和郎の著作物を読んだ。
 広津さんは、散文精神と、みだりに悲観もせず、楽観もせず、生きとおす散文精神を語っていた。権力側から盛れば、松川事件の被告は有罪にならなければならない。そのなかで、無罪を確信していた広津は無罪に向けて様々な活動をしてきた。その活動の中から、散文精神は生まれてきたのではないか。
 結果を悲観しすぎても、楽観しすぎてもいけない。生き抜く精神こそ人間にとって大切なことだと、広津は教えてくれた。
 いまも、人生で、自分にしか問題にならない重さがときたま押しかかる。めげたり、ぬか喜びすることがある。そんなとき、
 「みだりに悲観もせず、楽観もしない、散文精神」がわたしを助けてくれている。