私がスイスの病院で働き始めたとき、教授の秘書から『健康保険は、一般的(general)なのでいいか、それとも少しお金のかかる方(private)を選ぶか』と聞かれた
何も考えずに安い方がいいと答え、少し変な顔をされたが、すんなりとスイスの健康保険に加入できた。
何もかも慣れない環境での仕事開始だったが、だんだん分かってきたのは、医者は二種類に区分けされ、何となく風格がありそうで皆が一目置いているのが『上級医』、あとはフツーの医者である。
フツーの医者の仕事は結構厳しいようで、晩御飯を食べに家に帰り、また病院に来て夜遅くまで仕事をしている。
医師国家試験合格だけでは十分ではなく、何か頑張らないと生きてゆけないらしい。
若くて頑張る医者の第一関門は専門医試験で、上級医が試験日の半年前から、日々のカンファランスで徹底指導したりしていた。
それでも結構な確率で試験に落っこちるので専門医試験はかなり難しいらしい。
専門医になったからといって上級医になれるわけではなさそうで、また別の結構難しい上級医登用試験があったりするらしい。
そんな厳しい医者稼業を続けて、上級医になると人生にかなりいいことが起きるらしい。
同僚に聞いた話だが、下級医でいる間はフィアットの小さな車に乗っていたのが、上級医になったらすぐにポルシェに乗り換えるのだそうだ。
そんなわけでフツーの医者はだれもが上級医になりたがり、そのために勉強しまくるのだから、そんな医者の多くいる国の医療レベルは上がることになる。
巡り巡って、得をするのはその国の国民かも知れない。
さて、私はドイツ語、スイス語が全くしゃべれず、不満を言えるほど英語も上手ではなかったので、少々辛くても上級医の指示通り働くほかはない。
ある日、私が担当した風体卑しからぬ初老の患者さん、血管造影の準備を始めていると、何やらぶつぶつ言っている。
不機嫌そうなことは私にも判る。
美人の技師さんが、どうしたの?と患者さんに事情を聞いてくれた。
『あのね、あの患者さんプライベートの保険を持っているの、なのになんで私はこんな東洋人の若い医者に治療されなければならのか、上級医を呼べって怒っているわ。』と彼女が教えてくれた。
直ちに連絡が飛び、担当の上級医が慌てて飛んできた。
患者への上級医の説明は、
『この日本人の医師は、若いが血管造影の専門家で、わざわざ教授が日本から招聘した優秀な医者である、故に貴殿はプライベート保険のサービスを十分受けている』
患者さんは直ちにその説明に納得し、私の立場はすっかり堅固になり、私も患者の風体に負けないよう、口をへの字にして治療した。
だんだん分ってきたことだが、プライベートの保険に入って高い保険料を払い続け、病気になると、
・検査や治療の予約は、予約リストの一番上に入れてもらえる。
・個室に入れるし、食事もホテルのルームサービスのように銀の蓋をして運んできてくれる。
・診療は上級医に診てもらえる権利があって、フツーの医者は関わらない。
・プライベート患者専門の病院もあって、特別扱い気分が味わえる。
・他にもいろいろいいことがある。
さらに判ってきたことは、プライベートの患者さんの診療費用の何割かは、担当した上級医の給料に上乗せになるので、フツーの医者の何倍もの給料になるらしい。
これもプライベートの保険で支払われるので、ズルいという話ではなさそうだ。
患者側から見ると、いい医者に診てもらうには普段から高い保険金を支払うべし。
医者側から見ると、いい生活をするには下済み時代に臥薪嘗胆せよ。
という話に過ぎないのだが、、
どちらから見ても、人生は楽ではなく、備えが大切だと思えてくる。