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S.H@IGTのブログ

大阪府泉佐野市にある、ゲートタワーIGTクリニックの院長のブログ

私がとある公立病院の部長であった頃、いつも彼に悩みを相談したものだ。

『うちの病院、“あほ”ばっかりで、困ってんねん』

彼はじっと私の目を見て、

『おまえなあ、“あほ”に感謝せい。お前は“あほ”がいるから生きていけるんや、周りが賢い奴ばっかりやったら、お前、どうやって生きていくねん? “あほ”に感謝せい! せやけど身内の“あほ”は困るけどな』

以来、私は“他人のあほ”では悩まなくなった。

 

少し馴染みの姫がいた。

ある日、彼女が横にいて、そっと手に渡してくれたものがある。

マンションの鍵である。

その時、私の頭によぎったのは、

“たしか、この子のマンション、うちからかなり遠いよな・・”

“このことデートするには、すごいお金がかかりそう・・”

“いま、大学でいっぱい仕事抱えてて、時間ないよな・・”

私の頭に浮かんだのは、高潔だとか貞操だとかそんな“キレイナ”な気持ちではなかったことをいま心から反省しなければならない。

数週間ののち、彼は私に、

“彼女なあ、泣いてたで、、、 ほんまに、、、”

なんだか惜しいことをしたと私も思わなくはない。

でも、私は彼ではない、私はきっと池に溺れ、林の中の道を迷ってしまったに違いない。

今はそう思う。

 

私が今のクリニックを開くにあたりいろいろなことを彼に相談した。

彼は珍しく私の話を聞くだけで、おつまみを口に何度も運ぶばかりで何もコメントしない。

 

しばらくして、また新地に呼び出しがあり、私はお店のママさんともう一人、彼の友人、医療ビジネスで名を成した強面のおじさんに挟まれた。

強面:『聞いたで、あんたのやろうとしていることは危ない。素人さんのやれるようなことちゃう、今からでもええから止めとき』

ママさん:『せんせ、、あんさんええ人やけど、人生そんな甘ないで、、今からでも遅ないよ、止めときはったら、、』

彼の差し金に決まっている。

 

私はその後、彼らに言われた通り、確かに危ない橋をいくつも渡った。

橋から落ちかけた時、やくざのような人に危機一髪で手を差し伸べてもらったこともある。

その後、艱難辛苦の道を歩み、人生甘くないことを痛いほど実感した。

 

そんなわけで彼のおかげでいろいろ勉強し、何とか踏ん張り続け、今に至っている。

 

彼は、日本の医療を治す医者になるのを忘れず、またもやでかい病院を大阪のど真ん中に作ろうとしている。

 

私の方は、がんを手なずける医者を目指して、アーでもない、コーでもないと悩み続けている。

 

お互いに目標が大きすぎるようだ。

 

そういえばこのところ、とんと新地のお誘いがない、今度はこっちから電話してみよう。

私の大学時代の同級生に破天荒な異端児がいる。

 

学生の分際でジャケットのポケット、4か所に札束を仕込み、公営ギャンブル場に乗り込んでいた。

時々はポケットが満杯状態になって帰ってくることもあったと聞く。

長じて後、北の新地のクラブで、あれは本当だったのかと聞くと、実にいい勉強をしたと言っていた。

 

授業にはほとんど出ない。

代わりに、夕方になると女子大の校門の前にスポーツカーを止め、ハンティングをしていた。

この習慣はなかなか治らず、北の新地でつい最近まで同じようなことをしていた。

 

そんなおかげで私より2年も遅く大学を卒業した。

当然であろう、彼がいろいろ危ない経験を積んでいる間、私はしっかり医学の勉強していたのだから。

 

私は卒業して大阪の大学で放射線科を勉強し、病気を治す医者を目指した。

彼は卒後数年で大阪にでて、病院を治す医者になると宣言し、小さな病院を構えた。

卒業したての医者がどこから資金を捻り出したのか、だれもが知らない。

でもそんなこと彼には朝飯前であったに違いない。

 

その後、彼は傾きかけた病院をいくつも買収し、建て替えを繰り返しながら、大阪ではその名の知れた病院グループを作り上げた。

 

一方、私は小さなクリニックを作り、彼は私のものとは比べようもないほど立派な病院をいくつも作った。

 

世の中の景気が良かった時代、北の新地は、一握りの成功者とその取り巻きが集まり(まがいもなく私は後者)、お花がいっぱい咲いて蝶々が飛び交い、それはそれは賑やかなところであった。

 

真に幸いにも北の新地のすぐそばに私がいた大学病院があった。

彼は何か理由を見つけては、新地に出て来いと私に電話をかけてきた。

私はそのたびに嬉しくて、勉強道具の入ったカバンなんかほったらかして、小躍りしながら新地に向う。

少し歩けば心地よい小料理屋の美味しい食事にありつき、新地のお姉さんのイイニオイを満喫できるのだ。

 

そのきらびやかな、そして私の日常とはおおよそ違う酒池肉林の世界の中にどっぷりと漬かりながら、その池で溺れていない彼を私は不思議な思いで見つめていた。

 

その彼は竜宮城の姫に囲まれながら、己の経験と得た知識から生まれた彼の確信を惜しげもなく私に教えてくれた。

なので、しゃべりだしたら止まらない。

私は相槌をいくつか用意し、それを交互に繰り返すしかない。

その話の多くは、まさに目から鱗の類で、そのいくつかは私の人生に何らかの影響を与えたかも知れない。

 

そして幾つも幾つもいい勉強をさせてもらった。

友達に感謝、、、

 

続く, , , , ,(coming soon)

『音にきく高師浜のあだ波は、かけじや袖の濡れもこそすれ』は、浜寺で詠まれた歌だと小学校で習った。

歌の意味は分らなかったが、白砂青松という言葉を覚えたのはこの時であった。

そういえば隣に羽衣という地名があり、松林とぴったりの名前である。

少し南には松ノ浜というところもある。

 

この名所は浜寺公園となり、その入り口近くに、石碑がある。

『音に聞く高師の浜の浜松も世のあだ波は逃れ座りけり』とある。 

大久保利通の歌らしく、この歌のおかげで浜寺公園の松は伐採から免れたらしい。

 

私が小学生のころ、浜寺公園は進駐軍に接収されており、芝生の松林の広い敷地に点々と、白くペンキの壁に青くて太い窓枠のあるアメリカ風の家があり、芝生の庭では紅毛碧眼の女の子が遊んでいた。

金網フェンス越しに見ていたその景色が、私のアメリカであった。

 

浜寺公園の向こうには、遠浅の海岸があり、大阪ではちょっとした海水浴場であった。

釣りもできた。

どんな魚も釣れないときにでも、ガッチョだけは釣れた。

メゴチの一種で大きな三角頭の10㎝ほどの魚、色は鼠色、きれいではない。

両眼は飛び出し可愛げがない。

うろこはほとんどなく、ぬめぬめしていて触るのも嫌で、今日もガッチョだけしか釣れへんかったと悲しい気分になったものだ。

でも、英語の名前は、『リチャードソンさんのドラゴンちゃん』と可愛らしい。

にもかかわらず、時には『餌泥棒』と呼ばれ、誰も食べないから誰も持ち帰らない。

あまつさえ『猫マタギ』などとも呼ばれ、何匹も何匹も干からびた体を浜辺に晒していた。

 

小学校の同級生からガッチョと呼ばれた男がいる。

いつも落ち着きがなく、小うるさい。

なんでも話題に喰いついてイッチョ噛みをするので、その男をガッチョと呼んだのであろう。

担任の先生も、なかなか当を得たニックネームですと評していたぐらいだ。

この場合は、ニックネームを訳すとすれば愛称ではなく、あだ名とすべきであろう。

 

その男、授業中には先生の話をまともに聞かず、ボーと窓の外ばかり眺めていた。

どうも人と同じことをするのが嫌いらしく、少しばかり違ったことをするのが好きだが、さりとて大したことをするほどでもない。

長じてその性格が変わったわけではなく、少しばかり変わった仕事をしている。

 

でも、時代は大きく変わった。

高師浜の海は埋め立てられ、その沖は数キロにいわたり石油化学工場に変わった。

 

いまやガッチョは泉州(大阪の南、岸和田以南、紀淡海峡あたりまでの呼び名で、大阪の北に住む人にはダサくて品がなくて住みたくないという響きを持つ)にはなくてはならぬものに変わった。

頭を落とされ3枚に裂かれ、真ん中の骨はそのままつけて唐揚げにされたガッチョは、その面影がない。

酒のつまみには秀逸で、泉州の逸品である。

泉州の料理屋、居酒屋の定番メニューで、名物と言われるほどになっており、東京のお客さんにもおいしいと評判である。

 

息子はこれが好きで、『とりあえずビール!』、『とりあえずガッチョのから揚げ!』とセットで頼む。

孫に至ってもこれが大好きらしく、いの一番にガッチョに齧りつく。

カルシウムも一緒に取れるので、栄養価は高い。

しっかり食べて大きく育て!

 

でも、私はガッチョが好きではない。

 

私もお付き合いにと一匹手に取り、しっぽを掴む。

少しばかり眺めた後、真ん中の骨の部分から齧る。

骨はカリカリと心地よく砕け、松葉のようになった左右の身は、適度に歯ごたえがあって美味である。

 

しかし、噛むほどに、ざわざわと頭の中で聞こえ始める、、同級生のガッチョと呼ぶ声が、、、

やがて私の頭の中に鮮やかによみがえる、、、はるか昔の突堤のコンクリートの上で干からびたガッチョの哀れな姿が、、、