この話を読んでマコトニケシカランと叫ぶ人が居たとしても、トーゼンである。
でも、もうとっくに時効であり、どうも私一人の失敗でもなさそうなので、どうかご勘弁願いたい。
その昔、何事にもおおらかな時代があり、医療の世界でも同じであった。
医者の仕事をしていても、堅苦しいことは、今よりずいぶん少なかった気がする。
とはいっても決してその時代に戻って欲しいわけではない。
私が大学での2年の研修を終え、大阪の大病院に勤め始めたとき、誰が言ったか自分で言ったか忘れたが、血管造影検査が得意と伝わった。
その時、血管造影検査に詳しい医者がいなかったせいもあり、3年目の若造がいきなり血管造影検査の専門家にされてしまった。
院内のそうそうたる医者が集まる検討会で、さも分かったようなことを言い、不遜な発言をしたが、他に専門家がいないので、だれも「ほんまかー?」と突っ込んだりしない。
おかげさまで、自分の言ったことが正しかったのか間違っていたのか、後で考える癖がついた。
その昔、リンパ管造影という検査があり行われなくなって久しいが、なぜかこれも専門家に祭り上げられた。
通常、普通の検査室で足の甲を少し切開し、1㎜程度のリンパ管を探し出し、これに針をいれ、ゆっくりと造影剤を流し込むだけの仕事で、患者さんも大してしんどくない検査法であった。
そんな小さな切開を加えるだけなのに、なぜか手術室をあてがわれたことがある。
予定の時間になり手術着に着替え、予定の手術室に入ったら、麻酔の医者がいる。
アレッと思ったら患者さんは全身麻酔をうけ、人工呼吸器が働いている。
『しまった、部屋間違えました』、と踝を返すと、麻酔の医者が背後から
『ごめん、全身麻酔かけてしもた、今更覚まされへんのでこのままお願い・・』
ピクリとも動かぬ患者の足に1㎝の小切開を加え、快適至極なリンパ管造影であった。
くだんの麻酔医は、私がリンパ管に細い注射針を入れるのを見て、
『ようそんな、細い管に薬入れるよなー』とのんきなことを言っている。
結果説明は私の仕事で、
『麻酔を上手にかけてもらったので、1㎜のリンパ管に上手に薬を入れることができ、検査はうまくゆきました』と説明した。
今ならこの話、新聞に載り、院長と主治医と麻酔科医と私で、フラッシュを浴びながら、一斉に頭を下げているに違いない。
当時、全身用のCT検査装置が大阪で一番早く、日本でも数台目の装置がその病院に導入された。
当然、CTの画像なんて誰も見たことがない。
若かった私が担当に任じられ、言いたい放題の仕事が始まった。
院内の術前検討会では、CT所見を述べる役目も与えられ、今から思えば不遜極まりない役割であった。
ある日、手術室から呼び出しを受け、
『お前がないといったリンパ節転移あるやないか、おかげで手術法が変わってしもたやないか!』と手術場で怒られたこともある。
失敗だったのか、間違いだったのか、はたまた正しかったのか、境界の判らないことばかりだった。
だからなんでも勉強材料だった。
そんな中で少しばかり責任の取り方も勉強したように思う。
医療は人の命を預かるのだから間違いは許されないと人は言う。
私もそう思う、でも、今もって医療に完璧はない。
AIを駆使して情報分析し、コンピューターが最善完璧の医療を導きだす日がいつかは来るのだろう。
そんな完璧の時代、医者には気楽な時代が来てほしいような気もする。
そんな時代が来れば、どんな医者にかかっても同じ結果が得られることになるのだろう。
そんな時代が来れば、だれも責任を取る必要のないような医療になるのだろうか?
そんな時代が来れば、“医者の本懐”なんて言葉は死語になるのだろうか?
よく判らないが、私自身は頭を掻きながら、
『どうしたらええんや??』と悩み続ける日々が当分続きそうだ。