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S.H@IGTのブログ

大阪府泉佐野市にある、ゲートタワーIGTクリニックの院長のブログ

大学で研修を始めた頃の話で、もう、昔話と言ってもいいくらいだ。

 

週一度、資料整理の日があった。

大学の貴重な症例のレントゲンフィルムを、資料室に保管する前にチェックし、先輩方に一つ一つの画像の意味を教えてもらう貴重な機会であった。

その整理室は三方をシャーカステンと呼ばれる蛍光灯が何本も入ったフィルムを観察する装置に囲まれていた。

その装置にレントゲンフィルムをいっぱい並べて教えてもらう。

夏でなくても暑い暑い部屋であった。

目が痛くなるほどのたばこの煙だ。

でも誰も文句を言わない、ほとんどの医者がたばこを吸っていたからだ。

 

グループのリーダーは打田日出夫先生であった。

先生は、少し甲高い大きな声で早口で喋り続ける。

打田先生はフィルムの袋に診断名を書き込み、先輩たちはフィルムに印をつける。

研修医はそれを自分の目に焼き付けるのが仕事だ。

夜が更けるまで続く。

疲れたなんて誰も言えない。

打田先生がレントゲンフィルムを見ながら熱心に話し続けているからだ。

 

その状況で何故か私の役目は、打田先生に『終電、なくなりそうです』と耳打ちすることであった。

私たちは電車に乗るために病院から駅に走り、打田先生は、ねぐらの講師室に帰る。

 

打田先生は、血管造影検査の技を治療に生かそうという働きを始めた人である。

黄疸で手術ができないような患者さんの肝臓に、外から管を差し入れ黄疸を体の外に流し出す。

打田先生は、更にその管を十二指腸まで進め、胆汁が自然に十二指腸にながれるような治療の創始者でもある。

確かに私はその開発の現場にいた。

このカテーテル一本でそんな仕事ができるんだと、私は肌でそれを確信した。

 

先生は自分の私生活については何も語られなかった。

仕事に打ち込まれている姿以外、私は知らない。

この時代、ことを成す人は、こんなものかと思っていた。

 

雲の上の人であり、昔の典型的な恐い先生であったのに、有難いことに直接いろいろと教えていただいた。

その分、何かと怒られ、すっかり怒られることに馴れてしまっていた自分がいた。

 

ほどなくして奈良医科大学の教授になられた。

何の機会であったか忘れたが、

『医局の入り口の横に教授室があるんや、誰が何時に帰ったか、全部、記録したろ、と思うんや、アカンかな?』と私に聞かれた。

私は研修時代のことを思い出し、奈良医大の先生方は誰も家に帰れなくなることを心から心配し、止めた方がいいと思いますときっぱりと申し上げた。

 

その後、打田先生がその件をどうされたかは不明だが、奈良医大の医局員の指導はことさら厳しいことは、誰の耳にも聞こえてきた。

私が居た大学の人達は、打田先生が奈良に移られてよかったと皆が安堵したものだ。

 

奈良医大では肝細胞癌の動脈塞栓術を世界に広める役目を十二分に果たされた。

何度か国際学会に同行させていただいたが、熱く語られる先生の姿は忘れがたい。

 

学会では厳しいコメントをされることで有名で、いつしか学会での発言を打田節と誰もが呼ぶようになった。

 

世界中の有名な教授を何人も奈良に招待された。

有難いことに私もそのたびに声を掛けていただき、その先生方から大きな影響を受けた。

 

奈良医大を定年退官され、その後はどこかの病院の院長のような仕事は選ばれず、いろいろな病院で臨床の仕事を続けられていた。

 

本当に患者さんを診るのが好きな先生だったと思う。

ある時、『君のクリニックで、わし、雇ってくれへんか?』と言われた。

『いやいや、わしは君らの邪魔になることは分かってんねん、せやから治療終わった後の止血だけでさせてもらえたらええんや、わしはな、止血しながら患者さんと話するのが好きなんや、』

私は、そんな偉い先生に止血をしていただくなんて恐れ多いと瞬時にお断りした。

おまけに、先生にまた怒られることになったらどうしよう、と少し考えたような気がする。

 

それから何度か食事を共させていただく機会があり、退官後は恐い先生という印象はほとんどなくなった。

学会などではいつも打田先生からは温かいコメントを戴き、勇気づけられたことも多い。

 

一方、私の書いた論文に厳しいコメントを戴いたこともある。

すこし手を抜いた論文なんかを書いた時だ。

 

若いころからの無理が原因だったのだろうか、急性心不全で亡くなられた。

77のお歳であったと思う。

 

小さなクリニックでも、どんなに仕事の環境が変わっても資料整理は今も大切な作業である。

今は涼しく快適な部屋で、電子カルテの中に入っているCTや血管造影の画像を画面いっぱいに並べながら、いろいろと考える。

ああすれば良かったかなとか、こんな薬を使えばこの人まだいきていたかなあとか、いろいろ考える。

そんな時ふと、打田先生が私の肩越しに同じ電子カルテの画面を眺めているような気がすることがある。

難しいなあと悩んでいる私は、何かよい知恵はないですか、とつぶやいている自分がいるような気がする。

 

なんだか結局、私がこの道を歩いているのも、打田先生が歩いていた道だから、、、、という気がしないでもない。

 

 

 

仰げば尊し(その2)

 

放射線治療の井上俊彦先生は私の初めての指導医であり、患者の診かたや論文の書き方までを教えていただいた。

その年、井上先生が大阪府立成人病センター放射線治療科の部長に決まり、、私について来いと言われた。

まだまだいろいろなことに興味があり、放射線治療を専門にしようとは思っていなかったので躊躇した。

井上先生には大阪駅のホテルの日本料理屋で紙鍋をご馳走になり、なぜ紙鍋が焦げずに中身が沸騰するのか考えているうちに、『お供します』と言ってしまった。

 

その後、3年間みっちりがんの放射線治療の何たるかと医者の心得を教えていただいた。

そればかりでなく部下の可愛がり方やチーム作り方を教えていただいたが、今はその教えを実践することの難しさを感じている。

 

それから3年、大学に帰ることになり、専門として血管造影を選びたいと言い出した私に、『3年間も教えたのに、私についてこないのは君が初めて』と言われた。

真に恩知らずであったが、私は今もがん治療を専門にしており、教えていただいたことは一つも忘れていないので、私は先生の一番弟子だと思っている。

 

 

谷口健三先生は外科医であり、日々の仕事の内容は違ったが、私はいろいろなことを教えていただいた。

食道がん手術の大家で、大阪にこの医者ありと言われるほどに腕の立つ人であった。

 

当時、CTスキャンが登場したころで、私はCT検査の診断所見も書いていた。

ある日、手術場から私にすぐに手術室に来いと電話がかかり、私が駆け付けると、

『君のCT所見ではリンパ節転移はないと書いてあるやろ。それを信じてこんな大手術したのに、ここに腫れたリンパ節があるやないか。』

どんな叱責より、重く堪えた。

 

親子ほど年が違う大先輩であったが、日本酒が好きな先生で、何度も飲み屋に誘っていただいた。

 

何を教えてもらったかほとんど忘れたが、一つだけ強烈に覚えていることがある。

『きみなあ、医者は患者に自分がええと思うことを何でもやっているやろ、その結果がな、ええ結果が出たら、ちゃんと論文書かなあかん、あかん結果が出てもな、こんなことしたらあかんて、論文書かなあかん、それがな、あんたの治療を黙って受けてくれた患者への恩返しや』

もう一つ、これも谷口先生の一言であった気がするが、定かではない。

『きみなあ、医者の一生でな、それほどたくさんの仕事ができるわけやないねん、これや、この結果や、と思える論文は一つでええねん、わしは書けんかったけどな、あんたはがんぱりや』

 

近々、食事にお誘いして、その続きの話をもう少し教えていただきたいと思っている。

 

医者になりたてのあの頃、多くの先輩たちに恵まれた。

先輩たちの一言一言が、私の心に入り込み、今も仕事中に思い出したりする。

いかん、あの先生、こう言ってたのにな、と反省したりしている。

 

今岡真義先生も外科の先生であった。

週に一度、外科、内科、放射線科、病理の医者が集合し、肝臓や膵臓の患者さんの治療方針を決める会があった。

そこで諸先輩の意見を拝聴し、随分と医者の見識を高めることができた。

ある日、今岡先生が、肝細胞癌が胸壁に転移したおばあさんの話をしてくれた。

『数か月前にな、もうできることあらへん、患者にゆうたんや、そしたらそのばあさんなあ、今日、わしの外来に来たんや、けどな、腫瘍消えてんねん、何したんやって聞いたら、毎日腫瘍の上にお灸をすえたらしいねん・・・、わしらの負けや・・・』

今岡先生は私たちに新しいことを試みよと、いつもいつも言っていた。

 

私もその後、長じて肝臓学会で講演を依頼されるようになった。

その講演では肝細胞癌の塞栓療法に新しい球状塞栓材料を使った経験を話した。

その時の座長が今岡先生であった。

私の講演の後、座長のコメントでこう言っていただいた。

『この人は昔から、変わったことばかり試みていましたよ。大病院や大学病院に居る私たちこそが、本当はこういう仕事をしなければならないことを、この人は教えてくれているんですよ。皆さん、肝に銘じてほしい』

私は、その夜大阪に帰る飛行機の中で、嬉しくて、嬉しくて、機内誌なんか読んでももう全然頭に入らなかった。

 

 

つづく・・・

人は一人前になるには師匠が必要だ。

医者の場合、時として患者さんが師匠になったりするが、それはかなり修練を積んだ後の話であって、卒業したての医者には先輩や指導医が立派な師匠となる。

 

私にもたくさんの師匠がいて、いろいろ教えてもらった。

 

大学で研修を始める前、ある先輩が私を病棟に連れてゆき、看護婦さんたちに紹介してくれた。

当時は師ではなく婦の時代であった。

『まずな、婦長さんのお尻触ってこい』、先輩は小声で言う。

そのココロは、『仕事、やりやすくなるぞ』、、、その意味は私にも分かった。

だから先輩はどうもそれを看護婦さん達に広く実行し、彼の仕事はまことに順調であった。

私はそんなことをすれば、顔面がコワバル性格だったので、先輩の指示には従わず、違う方法をとることにした。

従っていればそれが癖になり、今頃、『うちの院長、エロオヤジ』とか言われていることだろう。

人には向き不向きがあることを、先輩の教えとともに肌で学んだ。

 

大学で初期研修のとき、私が慣れない手つきでカテーテルを動かしていると、部屋の外で透視のモニターを見ている指導医が、マイクを握りながら『おい、右に回さんかい・・・、行き過ぎや、もどさんかい、エー、何やってんねんオイ』、部屋中に罵声が響き渡る。

私も委縮するが、かわいそうなのは患者さんで、『もっと慣れた人に替わってくださーい』と小さな声で泣きながら叫んでいる。

後々、私がカテーテル治療室を作ったとき、ファミレスのお姉さんのようなインカムを採用した。

患者さんにはスタッフのやり取りは全く聞こえず、医者の腕が原因で血圧が乱高下することはない。

私は指導医から大切なことを学んだ。

 

昔はバリウム検査があり、白いどろどろの液を飲むと、食道から胃の壁に白い液が付着し、エックス線透視で見ると黒々と映る。

患者さんの身体を透視しながら、アッチコッチに体を回してもらい、食道や胃の病気の部分がうまく映るようにする。

なかなかの技が要る。

師匠がその粋を伝授してくれるのだが、うまくゆかないと『ちぇっ』と舌打ちの音が聞こえ、横を向くと眉間に皴が入った指導医がいた。

あまつさえ、『くっそー』などと下品な言葉が聞こえてくる。

以来、私はバリウム検査が好きになれず、専門から遠ざかった。

その後、バリウム検査は内視鏡検査に取って代わられ、専門にしなくてよかったとつくづく思う。

師匠に歩むべき道を教えられた気がする。

 

もう一人の指導医は、注腸法という大腸のバリウム検査を、関連病院でやってこいと命令した。

私はまだ研修したことがありませんと答えると、『君ならできる』と言われた。

その根拠に納得できなかった私は、数日必死にその検査法の教科書を読みイメージトレーニングを重ね、ことに臨んだ。

幸いに何とか検査を行い、それ以上誰に教わることもなく仕事を続けた。

今はすっかり教える立場に回った私だが、その思い出が忘れられず何かにつけ懇切丁寧に教える癖がついた。

良いことなのか、少し自信がない・・・。

 

無口な先輩がいた。

誰もが一目置く仙人のような人だった。

私が何かの病気の治療のことでどれが正しい治療法かと尋ねた時、『医療の中で絶対的に正しいことなんかありゃせん、あんたがな、自分で正しいと考えた方法で人にその理屈をちゃんと伝えることができたたら、それが正しい方法や』

この一言は、今も私の心に突き刺さっており、答えなんか今になってもでも出せず、アーでもない、コーでもないと考え続けている。

 

ことほど左様に師匠は大切である。

 

翻って私自身が人に示してきたものは何だったんだろう・・・?

おそらく、きっと、何人もの後輩に反面教師の役割も果たしてきたに違いない。

 

息子もいつの間にか一人前の医者になろうか、、というところにいる。

誰に教えられたか、一言もないが、ある意味では先輩の医者であるオヤジの背中は彼にはどう映っているのだろう?

一度聞いてみたい気もするが、かなりのルール違反の質問で、答えが帰ってくるはずもない。