仰げば尊し(その2)
放射線治療の井上俊彦先生は私の初めての指導医であり、患者の診かたや論文の書き方までを教えていただいた。
その年、井上先生が大阪府立成人病センター放射線治療科の部長に決まり、、私について来いと言われた。
まだまだいろいろなことに興味があり、放射線治療を専門にしようとは思っていなかったので躊躇した。
井上先生には大阪駅のホテルの日本料理屋で紙鍋をご馳走になり、なぜ紙鍋が焦げずに中身が沸騰するのか考えているうちに、『お供します』と言ってしまった。
その後、3年間みっちりがんの放射線治療の何たるかと医者の心得を教えていただいた。
そればかりでなく部下の可愛がり方やチーム作り方を教えていただいたが、今はその教えを実践することの難しさを感じている。
それから3年、大学に帰ることになり、専門として血管造影を選びたいと言い出した私に、『3年間も教えたのに、私についてこないのは君が初めて』と言われた。
真に恩知らずであったが、私は今もがん治療を専門にしており、教えていただいたことは一つも忘れていないので、私は先生の一番弟子だと思っている。
谷口健三先生は外科医であり、日々の仕事の内容は違ったが、私はいろいろなことを教えていただいた。
食道がん手術の大家で、大阪にこの医者ありと言われるほどに腕の立つ人であった。
当時、CTスキャンが登場したころで、私はCT検査の診断所見も書いていた。
ある日、手術場から私にすぐに手術室に来いと電話がかかり、私が駆け付けると、
『君のCT所見ではリンパ節転移はないと書いてあるやろ。それを信じてこんな大手術したのに、ここに腫れたリンパ節があるやないか。』
どんな叱責より、重く堪えた。
親子ほど年が違う大先輩であったが、日本酒が好きな先生で、何度も飲み屋に誘っていただいた。
何を教えてもらったかほとんど忘れたが、一つだけ強烈に覚えていることがある。
『きみなあ、医者は患者に自分がええと思うことを何でもやっているやろ、その結果がな、ええ結果が出たら、ちゃんと論文書かなあかん、あかん結果が出てもな、こんなことしたらあかんて、論文書かなあかん、それがな、あんたの治療を黙って受けてくれた患者への恩返しや』
もう一つ、これも谷口先生の一言であった気がするが、定かではない。
『きみなあ、医者の一生でな、それほどたくさんの仕事ができるわけやないねん、これや、この結果や、と思える論文は一つでええねん、わしは書けんかったけどな、あんたはがんぱりや』
近々、食事にお誘いして、その続きの話をもう少し教えていただきたいと思っている。
医者になりたてのあの頃、多くの先輩たちに恵まれた。
先輩たちの一言一言が、私の心に入り込み、今も仕事中に思い出したりする。
いかん、あの先生、こう言ってたのにな、と反省したりしている。
今岡真義先生も外科の先生であった。
週に一度、外科、内科、放射線科、病理の医者が集合し、肝臓や膵臓の患者さんの治療方針を決める会があった。
そこで諸先輩の意見を拝聴し、随分と医者の見識を高めることができた。
ある日、今岡先生が、肝細胞癌が胸壁に転移したおばあさんの話をしてくれた。
『数か月前にな、もうできることあらへん、患者にゆうたんや、そしたらそのばあさんなあ、今日、わしの外来に来たんや、けどな、腫瘍消えてんねん、何したんやって聞いたら、毎日腫瘍の上にお灸をすえたらしいねん・・・、わしらの負けや・・・』
今岡先生は私たちに新しいことを試みよと、いつもいつも言っていた。
私もその後、長じて肝臓学会で講演を依頼されるようになった。
その講演では肝細胞癌の塞栓療法に新しい球状塞栓材料を使った経験を話した。
その時の座長が今岡先生であった。
私の講演の後、座長のコメントでこう言っていただいた。
『この人は昔から、変わったことばかり試みていましたよ。大病院や大学病院に居る私たちこそが、本当はこういう仕事をしなければならないことを、この人は教えてくれているんですよ。皆さん、肝に銘じてほしい』
私は、その夜大阪に帰る飛行機の中で、嬉しくて、嬉しくて、機内誌なんか読んでももう全然頭に入らなかった。
つづく・・・