高校で最下層になり、大学受験で努力して上位私立に入った話 | 辛くない医学部受験と英語

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メディカル系指導という教室を運営するプーさん先生のブログ

こんにちは、プーさん先生です。

ご訪問ありがとうございます。

 

今日でお盆も終わりですね。

昔の自分を供養する意味で、自分の高校時代の話をします。

 

そんなこんなで(中学受験中学時代

すっかり勉強習慣がないまま育ってしまった私。

高校で授業内容が分からなくなってしまいます。

 

そもそも、中学の時に授業をきちんと聞くという習慣が取れてしまいました。

(最悪)

授業中は大事なところをつまみ食いすれば後はわかったので、あとは友達と雑談するか、

手紙のやり取りをして時間をつぶす毎日。

 

それでも中学時代はあとからノートを見れば100%理解できたのですが、

高校になるとそうはいかなくなりました。

 

授業内での演習や宿題でペンが進まなくなり…

 

それでも授業態度を変えられず、いつのまにやらクラスは一番下に。

 

まっしぐらに最底辺に突き進んでいたのですが、

高校二年から三年に向かう春休み、友達と大学巡りに行くことになります。

 

「大学見に行かねえ?」

 

と中学時代の塾友達と早慶上智を見に行くことになりました。

 

早稲田は入口の立て看板を見て引いてしまい、

上智は大学と言うより、「ビルみたい」と思いピンと来ず

慶應の三田校舎の入り口を見て、「うわああかっこいいい!」と思って慶應を目指すことにしました。

 

そこから死に物狂いで努力します。

自分はバカだから人よりも努力をしなくては絶対に受からないのだ、

と、まずはクラスで一番勉強量をこなすことを目標にしました。

高校では高3になってから、勉強時間を記録するようになり、

そこで一番を目指しました。勉強時間の張り出しなどは無かったので、

個人的に、勉強時間が多そうな友達と勉強時間を見せ合って競争していました。

 

学校がある日は夜10時まで残って勉強し、行きかえりの電車内では単語帳を見て、

歩いている間はぶつぶつ日本史の用語の説明をくちずさむというのをやっていました。

 

そんなことをしていても、勉強が全て自己流なので、めちゃくちゃ効率が悪かったと思います。

事実、大学で塾講師をするまで5文型の存在をしりませんでしたし、

構文把握の仕方を知りませんでした。

英文は単語をつなぎ合わせて、勘で読む!としていました。

 

そんながむしゃらな努力で、高3スタート時には偏差値30代(白紙)だった成績が、

受験直前には偏差値65にまで上がっていました。

それでもやはり一年程度ではなんともならず、現役時代は滑り止めの日大を除いて全敗。

これで納得できなかったので、浪人させてもらいました。

 

元々浪人する覚悟で勉強していましたし、国立受験で周りの子達がいない中、

1人で図書館で勉強している時は「めちゃくちゃ差が付けられる!」と喜んでいました。

そんな感じで勉強していたら、河合のプレースメントテストで偏差値70↑を取ることができました。

 

チューターから「この成績なら東大コースでもいけるけどどう?」などと誘われ、

めちゃくちゃいい気になった僕は

 

サボり始めます

 

高校の友達と河合塾に通っていたのですが、

授業こそ真面目に聞くものの、予習復習など、厳しい講師のものだけしかやらず、

基本は河合校舎のリフレッシュルームでたむろするいわゆるダメ浪人生をやっていました。

 

そうすると自然と成績は下がっていくわけで、

最終的に受験直前の模試では偏差値65と現役時代と変わらない感じに。

 

しかし、何の因果か、明治中央青学と受けてもどこも引っかからなかったのに、

慶應には合格を貰えました。これは小学生の時から得意だった国語力のおかげなのかなと思ってます。

 

現役時代の勉強時間は週に100時間を目指して勉強していました。

基本的に一日15時間勉強してましたね。

この時にちゃんとした勉強のやり方を教えてもらっていたら、もっと成績は伸びたのになあと今は思いますね。無駄なことを沢山していました。

なので、今個別を受けられている子達はとても幸せなんだよーと言ってあげたくなります。