静岡県の漁村に暮らす心屋塾認定講師

 

いがぐりこ、こと、栗林あやです。

 

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「私のテリトリーを侵害される恐怖」みたいなものは、いまだにある。

 

 

私の世界に入って来ないで

 

私のお気に入り。大事にしているもの。大事な場所。大事な人・・・。

 

 

大事にすればするほど、

 

後からやってきた屈託のない笑顔の人に

 

踏み荒らされてしまう。

 

 

わたしが大事にしている世界を、

 

悪気のない人が

 

悪気なく踏み込んでくる。

 

 

わたしは、胸をえぐられたような衝撃を感じて、

 

それを許容できない自分にも自己嫌悪を感じて、

 

自己評価をごっそり持っていかれてしまう。

 

 

わたしは、居心地が悪くなって、

 

大好きだったそのコミュニティーを抜ける。

 

大好きな人を嫌いになって、

 

大好きな場所を破壊して、

 

その場所から、痕跡を無くして居なくなる。

 

 

 

私のささやかな幸せは、

 

屈託のない笑顔の人を見張ることで、

 

時間を奪われ

 

エネルギーを奪われ、

 

結果的に、その唯一の居場所さえも乗っ取られてしまう。

 

 

そんなのが、少し前まで、よくあった。

 

 

自分の居場所が奪われた悲しみと、

 

「奪われた」と感じてしまう自分の心の狭さにもダメ出しをして、

 

ダブルで苦しみを感じていた。

 

 

 

それが、和らいだと感じたのは、この頃だろうか。

 

まだ最近のことだ。

 

 

自分の大事な居場所は誰にもおびやかされない。

 

 

 

具体的にどうしたら楽になったのかは、

 

今はまだ言語化できない。

 

 

まずは、「奪われた」と感じてしまう自分を責めなくていい。

 

奪われたと感じてしまうことを、

 

どうにかしてポジティブに変換しようとしなくていい。

 

 

その上でひとつ言えるのは、

 

「自分は豊かで、そういった居場所を見つける(作り出す)のが上手。」

 

「先見の明がある。」

 

と思ってみるのがいいかもしれない。

 

 

つまり、私自身が「持っている」人なのだ。

 

他人に分け与えられるくらいに。

 

 

後に続いて居場所を乗っ取っちゃう人は、

 

奪わなければ、生きていけない人なのだ。

 

他人のテリトリーに居候しなければ、

 

生きて行かれない人なのだ。

 

 

だから、その屈託のない笑顔の人たちが

 

私の大事なテリトリーに居候しにくるたびに

 

わたしは「持っている」を自覚するチャンスだと捉える。

 

 

わたしは「持っている」。

 

 

そんなのを自覚したした時が

 

ちょうど、上にリンクを貼った

 

1年前ブログ記事の頃だったのかもしれない。

 

 

 

わたしは「持っている」。

 

ゆとりがあると、他人の行動は些細なことに感じて、どうでもよくなる。

 

心の余裕があると、気にならなくなる。

 

 

体調や気分が落ちて居るときは、

 

ゆとりがなくなるから、

 

今でも「私のテリトリーを侵害される恐怖」みたいなものが出てくることはある。

 

でも、以前ほどは苦しくなくなった。

 

 

 

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今日は、コバの起業支援スクールで東京に向かっています。

 

直前で続々とお申込みいただき、ほぼ満席じゃなかろうか。

 

 

会場でお会いする皆さまも、

 

ZOOMでお目にかかる皆さまも、

 

動画で後から受講してくださるみなさまも、

 

どうぞよろしくお願いします。

 

コバの起業支援は、コロナ禍にあっても大盛況で、さすがほんとすごいな〜と、ビッ栗ポン!です。

 

行ってきます。