五稜郭(日本100名城) 1 歴史 | みどりの木のブログ

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今日からは函館五稜郭の紹介です。

第1回目は五稜郭の歴史です。

2024年4月23日訪問しました。

 

五稜郭は桜が満開でした。

 

函館の地形は

 

川から流れた土砂は沿岸流に

運ばれて、島と陸の間に堆積

しました。

 

3500~3000年前に函館山と対岸が

繋がり、陸繋島(トンボロ)が出来

ました。

 

五稜郭の歴史

 

1802年-1807年に箱館奉行所は、

当時は松前藩の箱館奉行詰役所が

った、元町公園付近に置かれま

す。

 

元町公園の位置が赤枠

 

1854年3月に日米和親条約の締結

で、下田・箱館開港が決定します。

江戸幕府は松前藩領の箱館周辺を

上知し、同年6月に箱館奉行を再置

します。初代奉行の竹内保徳は松前

藩の建物を増改築して引き続き使用

する方針でした。

しかし、2代目の奉行に任命された

堀利煕は、同所は箱館湾内から至近

かつ遮るものがなく、艦砲射撃され

てしまう、加えて外国人の遊歩区域

内の箱館山に登れば奉行所を眼下に

見下ろすことができるので防御に適

しません。亀田方面への移転が必要

だと幕府に上申します。そして竹内

と堀は江戸に戻ると、箱館湾内から

の艦砲射撃の射程外に位置する鍛冶

村中道に「御役所四方土塁」を築い

て奉行所を移転する意見書を老中・

阿部正弘に出した。これが幕閣に

受理されます。

 

箱館奉行所の移転先に選ばれたのは、

箱館の隣村・亀田村にある柳野と呼

ばれる緩やかな丘陵地でした。港湾

から約3kmほど離れた場所で、これ

は当時の大砲の射程距離から外れて

いました。(函館戦争時には大砲の

進歩で、射程内でした)軍事的に優

れた立地にありながら、箱館の市中

からそれほど遠く離れた場所ではな

く、赤川(亀田川)から清流を引き

込むことができ、さらに周囲にある

泥沼や曲がりくねった道が防衛上の

利点になると判断されました。

この地に、四方を土塁で巡らせた役

所を建てる計画が決まり、箱館奉行

支配の諸術調所教授役で、蘭学者の

武田斐三郎が設計を行うことになり

ました。

 

武田斐三郎の銅像です。

五稜郭内の石碑です。

1855年にフランスの軍艦「コンスタン

ティーヌ号」が函館に入港したときに、

武田は副艦長の指導で、大砲設計図や

稜堡の絵図面を写し取ります。武田は

この絵図面を基に五稜郭と弁天台場の

設計をしました。

 

 

総工費41万両の予算書が作成されます。

当初は工期20年の計画ですが、蝦夷地

警備を命じられた松前藩(戸切地陣屋)

・津軽藩(津軽陣屋)・南部藩(南部陣

屋)・仙台藩(白老陣屋)の各陣屋が既

に完成していたことから、五稜郭や台場

の工事が遅れると、箱館市民や外国人に

対して幕府の権威を失うことになるので、

弁天台場と五稜郭の築造を急ぎました。

この役所を囲む土塁が、亀田御役所土塁

(五稜郭)です。

 

幕命で南部藩と津軽藩が陣屋を

設置しています。五稜郭の北側

には武家屋敷が出来ました。

 

1857年(安政4年)7月に五稜郭の築造

を開始します。建物については1856年

(安政5年)から郭外北側に役宅を建設、

1861年(文久元年)に奉行所庁舎建設

を開始した。最後に石垣工事を行う計画

だったが、この地は地盤が脆弱で冬季の

凍結・融解により掘割の壁面が崩落した

ため、急遽石垣工事を先行させました。
1864年(元治元年)に竣工、6月15日

に箱館奉行:小出秀実が奉行所を五稜郭

内に移転し業務を開始します。引き続き

防風林や庭木としてのアカマツの植樹や

付帯施設の工事も行われます。

1866年(慶応2年)に全ての工事が完了

しました。

 

五稜郭の完成図です。

 

上図①の函館奉行所古写真です。

 

幕末より五稜郭に唯一

残る、上図⑩の土蔵です。

 

函館戦争


大政奉還の後、新政府により箱館府が

五稜郭に設置されました。

1868年箱館府知事の清水谷公考に引

き渡され、五稜郭の箱館府が引き続き

政庁として使用されます。

1868年10月21日に榎本武揚率いる

旧幕府軍が鷲ノ木(現在の森町)に

上陸します。箱館府は迎撃したもの

の各地で敗北。10月25日に清水谷

知事が箱館から青森へ逃走します。

1868年10月26日に松岡四郎次郎

隊が無人の五稜郭を占領します。

1868年5月11日の新政府軍による

箱館総攻撃の際には、五稜郭が司令

部で備え付けた大砲で七重浜および

箱館港方面に砲撃をしました。

しかし新政府軍に箱館市街を制圧さ

れ、翌12日以降、幕府軍船甲鉄が

箱館港内から五稜郭に向けて艦砲

射撃を行うと、五稜郭奉行所まで

砲弾が届き、命中した砲弾により

古屋佐久左衛門らが死傷します。

 

函館戦争錦絵です。

 

長男ではないので、土方家を

継げない時は婿養子以外では、

水のみ百姓でした。

 

五稜郭タワーの土方歳三銅像です。

 

土方歳三の古写真です。

 

また、新政府軍は各所に陣地を築

き、大砲を並べ砲撃します。猛烈

な砲撃に旧幕府軍は夜も屋内で寝

られず、また五稜郭には堡塁がな

かったため、石垣や堤を盾にして

畳を敷き、屏風を立ててかろうじ

て攻撃を凌ぎました。

 

その後5月15日に弁天台場が降伏、

16日には千代ヶ岱陣屋が陥落し、

新政府軍から五稜郭へ総攻撃開始

が通知され、五稜郭では軍議を経

て5月18日に榎本らが降伏します。

五稜郭では戦闘が行われることな

く新政府軍に引き渡されました。

 

明治以降、五稜郭は兵部省から

1873年(明治6年)には陸軍省

の所管となります。奉行所庁舎

および付属建物の多くは解体さ

れ、練兵場として使用されました。

 

1913年(大正2年)函館区長の

北守政直が陸軍大臣に、五稜郭

を公園として無償貸与して欲し

いとの請願を行ない、翌年には

五稜郭公園として一般開放され

ました。また、『函館毎日新聞』

が発行1万号を記念して、

1913年から10年かけて数千本

のソメイヨシノを植樹した。

この桜は現在も約1,600本が残

っており、北海道内有数の花見

の名所となっています。

 

1952年(昭和27年)には特別

史跡に指定されます。

 

1964年(昭和39年)五稜郭築城

100年を記念して、南隣に高さ

60mの五稜郭タワーが出来ます。

 

2006年(平成18年)に現状変

更許可を得て、函館奉行所復元

に着工します。

2010年(平成22年)に復元工

事が完成し、7月に開館しました。

 

五稜郭タワーの上から見た、

復元された函館奉行所です。

 

現在のGoogleマップです。

 

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