五稜郭(日本100名城) 10 函館奉行所 後編 | みどりの木のブログ

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前回の続きです。

今回は函館奉行所後編です。

 

下図⑫の御役所調役(取調所)

の続きです。一部の展示資料

を解説します。

 

⑫展示室の解説紹介の続き

からです。

 

江戸幕府が蝦夷地支配の、

負担分配のために、松前藩

以外にも東北の諸藩を動員

した絵図です。仙台藩伊達

氏は国後・択捉島まで警備

してます。

寒冷地装備もなしに、派遣

された藩では、冬があまり

に寒いので凍死した藩士ま

でいました。

また、北海道が広いので、

函館奉行所では奉行を3人

に増員しています。

 

8年の歳月をかけて1964年に

完成した、弁天岬台場です。

どこの藩も幕府から台場を

造るように命じられていま

す。函館奉行所でも台場が

ありました。

武田斐三郎の設計です。

大変立派な台場ですね。

函館戦争の際に旧幕府脱走

軍の防御拠点になりました。

 

弁天岬台場の位置です。

 

明治になり撮影された弁天岬台場

の古写真です。

 

1868年(明治元年)の幕府脱走

軍による北海道侵攻図です。

10月20日に鷲ノ木に上陸して、

10月26日に五稜郭占領して、

函館奉行所では函館府総督の

清水谷公考が青森に逃亡して

います。

11月5日には松前藩の松前城

(福山城)を制圧しています。

11月15日に幕府脱走軍主力艦

の開陽丸が江差沖で沈没してい

ます。

 

旧幕府脱走軍の組織図

役職は投票で決めたそうです。

榎本武揚が総裁で、大鳥圭介が

陸軍奉行になります。土方歳三

は陸軍奉行並でした。徳川家の

松平太郎は副総裁でした。

フランス士官も隊長ブリュネら、

4名が参加しています。

 

1869年(明治2年)に新政府軍が、

4月9日乙部上陸から五稜郭占領ま

での絵図です。

 

⑬付近に行くと

 

上図⑬から玄関方向です。

 

 

上図⑭は同心の者が使用して

います。現在は映像シアター

です。

解説板です。

暗いのでボケました。

 

同心達の詰所でしたが、

現在は映像シアターです。

 

最後に太鼓楼付近⑮に行くと

 

⑮を左に曲がると太鼓櫓です。

 

⑮付近です。左に曲がると

 

奥に太鼓櫓の階段が見えます。

立入禁止でした。

 

太鼓櫓の解説板です。

奉行所の始業は太鼓の

音で始まりました。

奉行は10時から15時

までの勤務でした。

 

函館湾から土塁越に太鼓櫓が

見えたので、艦砲射撃の標的

となり、砲弾が着弾していま

す。

 

5層の太鼓櫓構造図です。

 

今回はここまでで、次回が最終回です。

 

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