紀伊田辺城 5 水門跡から城代安藤家菩提寺西方寺 | みどりの木のブログ

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前回の続きです。

今回は水門跡から城代安藤家菩提寺

西方寺までです。

 

下図⑧付近水門跡から南方向

です。塀の左側が錦水公園で

本丸でした。右側は廃城後に

出来た道路です。

 

Google地図です。⑧から会津橋

方向は

 

⑧の水門跡から会津橋方向

です。

 

Google地図です。(上が北)

 

会津川から船で出入りできました。

 

城主安藤直次は徳川家康の命で、

和歌山藩の付家老に任命されて

います。直次自身は和歌山城下

に住んでいて、田辺の領地は、

従兄の安藤小兵衛が留守居役

でした。安藤家の家紋はどち

らも同じ、下り藤に安の字が

あるものです。

 

⑧から⑨に歩くと

下図内堀跡は埋められて、全く

見当たりませんでした。

 

 

 

⑨付近にある恵比寿神社です。

この北側から会津橋を見ると

 

 

 

⑩付近に行くと

 

会津橋です。

 

さらに進んで⑪に行くと

 

下図⑪付近から⑫旧会津橋方向です。

手前には支流の橋があります。

 

Google地図です。

 

江戸時代後期の古絵図です。

旧会津橋は江戸時代にもあり

ました。旧会津橋を渡ると、

寺院が3軒あります。

 

川端にある石碑です。

 

旧会津橋を渡ると

 

橋を渡ったところから西方寺山門

と本堂が見えます。赤い線に沿っ

て進むと

 

浄土宗西方寺山門です。

 

開基年代は不詳です。往古は西ノ谷村

(現在田辺市元町)より、慶長12年に

賢誉上人により、現在の地に移され、

中興されます。
1609年(慶長14)年当時の領主浅野

左衛門の命により、家臣石黒作右衛門

が本堂を建立しました。

1619年に安藤直次の従兄だった安藤

小兵衛直隆が田辺城代となり、西方寺

を菩提寺として、代々檀家となりまし

た。以降、一族や紀州藩主家、大名家

などから養子を迎えるなどして存続し

ました。明治維新後の1868年に明治

政府により16代直裕が独立大名と認

められました。そのあと直ぐに廃藩

となっています。紀州藩の陪臣であ

ることは、幕府直臣より格下に見ら

れたようです。

 

田辺城主安藤直次の肖像画です。

1616年までは幕府老中でした。

尾張犬山城主成瀬正成と同じ附

家老です。

1635年81歳で死去します。

墓所は愛知県岡崎市大和町に

ある、浄土真宗妙源寺です。

誕生地が岡崎付近なので、

故郷に墓を造りました。

田辺ではなかったのです。

 

田辺城代安藤小兵衛家の

代々の墓です。

 

今回はここまで、次回最終回です。

 

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