長岡城 1 歴史 | みどりの木のブログ

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今回から長岡城の紹介です。

2022年8月3~4日に訪問しました。

新型コロナで中止されていた長岡花火

大会も見物出来ました。

第1回目はその歴史です。

 

1598年に上杉氏が陸奥会津に移封されると、

その次に越後に30万石で入封した、堀秀治

(堀秀政の長男)の弟堀親良が4万石を与え

られて蔵王堂城主となり、親良を継いだ甥の

鶴千代が、幼少のため堀直竒が後見役として

蔵王堂城に入ります。

 

堀直竒の木造です。(長岡市Webページより)

 

隠居してから描かれた堀直竒肖像画

 

蔵王堂城と長岡城の位置です。

 

1605年10月5日から、 堀直竒は蔵王堂城が

信濃川に面して洪水に弱いことから、その南

にあって信濃川からやや離れた長岡(現長岡

駅周辺)に、新たに長岡城下町の建設に着手

します。(上図)

1606年5月26日から、堀直竒は縄張りも終

わり、目付け役の承認も得て長岡城の築城を

開始します。

1606年に鶴千代が早世したため、蔵王藩は

2代で断絶します。

1610年には堀本家の堀忠俊(秀治の子)が

幼少のため、家老堀直清と堀直寄兄弟の内紛

を収められなかった罪で除封され、かわって

徳川家康の6男松平忠輝が越後に入封すると、

蔵王堂城もその支配下となります。

1610年閏2月3日に直奇は信濃国飯山藩4万

石に移封され、堀本家は改易になりますが、

これで堀直竒は本家から独立出来ました。

しかし、長岡城の築城が中断しました。

1616年には松平忠輝が大坂の陣における

不始末から改易されると、6年前の騒動の

一方の元凶であった堀直寄が8万石をもっ

て蔵王に入封します。直寄は蔵王堂城から、

長岡(現長岡駅周辺)に新たに築城を継続

して、城下町を移して長岡藩を立藩します。

1618年に堀直竒は越後村上に移封されて、

1618年に譜代大名牧野忠成が6万2千石

で、長岡に入封します。

 

牧野忠成の肖像画です。

 

牧野氏は堀氏ら外様大名の多い越後を、

抑える役割を委ねられ、1620年には

1万石を加増され、さらに1625年に

新墾田2000石を表高に加え7万4千

石となり、ほぼ完成していた長岡城

を完成させています。

 

1645年頃の完成した長岡城です。

(国立公文所館より)

中心部を拡大すると

 

長岡城絵図(国立国会図書館)

石垣はありませんでした。

 

本丸にあった天守代わりの三階櫓です。

(牧野家資料館より)

近くに模擬復元した三階櫓があるのです

が、上のような姿ではありません。

 

以後明治維新まで、長岡城は牧野家の城

となりました。その間多くの災害に遭い

ます。

1728年に起こった「三蔵火事」と称する

大火事で本丸から外曲輪にいたる城郭すべ

てが全焼し、城の再建は幕府から7000両

借用して行われ、1754年に完成しました。

1829年12月の三条地震では本丸を初め、

役所、門、塀、柵など、ほとんどが大破

し、翌年の大風では城内破損35箇所ほど

の被害を受けています。 

1844年の俊治火事では城門2つ、城塀の

324間が延焼しています。

水害対策が長岡城建設の理由でしたが、

信濃川の洪水で城内まで浸水することが

5回もありました。

 

A地点から本丸方向を見ると

 

 

 

現在の地図と幕末の絵図を重ねた地図

です。A地点から本丸方向を見ると

 

長岡城下年中行事図絵 「年始登城」

片山翠谷(初代)画です。

上図A地点から本丸方向です。

天守代わりの三階櫓が見えます。

元旦に年賀のため登城する様子を

描いた画で、江戸時代後期の作。

大手門を過ぎて桜御門に入るとこ

ろ。右に見える大きな櫓は二の丸

の櫓、中央奥に見えるのが本丸の

三階櫓です。

 

現在の長岡城です。(上が北)

遺構が残っていません。

 

本丸の三階櫓跡付近にある本丸跡石碑です。

 

1868年の戊辰戦争(北越戦争)により

長岡城はほぼ焼失します。焼け残ったの

は、本丸の九間門橋・三階隅櫓・坤隅の

櫓・かご部屋と二の丸の南櫓、千手口門

だけでした。これらも売却撤去されて、

公園のようになり、

 

北越戦争で官軍と戦った河合継之助です。

この背景の庭が、河合継之助屋敷の江戸

時代の庭です。

河井継之助を主人公にした映画「峠」

が2022年に上映されました。

彼は官軍本陣へ出向き中立したい

と訴えますが、官軍の兵器は長岡

藩を大きく凌いでいたので、中立

など受け入れられませんでした。

 

官軍本陣は小千谷にありました。

 

日本で初めてガトリング砲という

機関銃を使ったことで有名です。

 

記念館にあるガトリング砲の模型です。

3千両で買ったそうですが、しかし、

飛距離の長いスクリュー砲(アーム

ストロング砲)を買っておくべきで

した。

 

北越戦争を描いた古絵図です。

 

1898年(明治31年)鉄道敷設の際、

本丸跡の東部分に長岡駅が開業します。

1902年に二の丸跡には宝田石油本社が

建てられ、この頃まで二の丸内濠が残

っていました。

 

長岡駅の位置です。

 

長岡城二の丸跡にあった宝田石油本社

の古写真です。

大正期まで宝田石油本社の周辺に長岡

城の二の丸内濠が残っていました。

長岡城には石垣がありませんでした。

 

宝田石油本社は移転後、この地を長岡

市に寄付し、1926年に長岡市公会堂が

建設され、内濠は埋め立てられます。

二の丸跡はその後、長岡市公会堂から、

1958年に長岡市厚生会館と移り変わり、

2012年からは長岡市役所本庁舎などを

含む複合交流施設「長岡市シティホール

プラザアオーレ長岡」となっています。

 

二ノ丸跡の長岡市シティホール

プラザアオーレ長岡です。

 

遺構が残っていたら名城に選ばれた城

ですね。

 

5年前にUPした明石城の紹介です。

 

今回はここまでで、次回につづく

 

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