岩櫃城(続日本100名城) 7 本丸2 真田幸綱(幸隆) | みどりの木のブログ

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1日おきに更新しています。

前回の続きです。

今回は本丸2です。

 

1段高い所には櫓台と館がありました。

本丸の高台に上がると

 

1段高い所にあがったところです。

本丸跡の標柱があります。

この反対側は

 

下図⑨付近です。

本丸上段角の櫓台跡付近から

本丸をみたところです。

 

 

 

正確な高低差立体地図です。

 

岩櫃城本丸跡の標柱と解説板です。

解説板を拡大すると

 

解説板です。

1563年に武田信玄は家臣の

真田幸綱(幸隆)に岩櫃城攻略

を命じました。真田幸綱は真田

幸村(信繁)の祖父です。

 

真田幸綱(幸隆)肖像画です。

 

この頃の吾妻の地では、嬬恋の

鎌原氏と、長野原の羽尾氏が同

族でありながら仲が悪く揉めて

いました。鎌原氏の後ろには信

濃の真田氏が応援し、羽尾氏の

後には岩櫃城の斎藤憲広がいて

応援しています。斎藤氏のさら

に後ろには越後の上杉氏がいま

した。

この吾妻でも信濃同様の武田と

上杉の代理戦争になりました。

 

真田幸綱(幸隆)は羽尾氏を

押さえて、斎藤氏の岩櫃城を

攻めますが、難攻不落の岩櫃

城を武力で攻め落とせません

でした。そこで、真田幸綱は

寺の和尚に仲介を頼み和議と

しました。その間に真田幸綱

は斎藤氏の家臣に寝返るよう

に調略をしています。

1か月後に幸綱は突如岩櫃城

を攻撃しました。味方に火を

かけられ、敵兵を招き入れら

れた斎藤憲広は城外に逃げて、

越後に落ちのびました。彼の

孫の城虎丸は中之条の嶽山城

に籠城して戦いますが、敗れ

て城と運命を共にします。

岩櫃城攻略の3年後に、孫の

真田信幸(信之)が生まれ、

その翌年に真田信繁(幸村)

が生まれました。父の昌幸

は信玄の小姓(人質)とし

て、軍略を学んでいます。

 

真田昌幸肖像画です。

(虫食いがあります)

真田家の末裔の方が所有していた

肖像画で、今までは下図のように

穏やかな顔立ちでしたが、秀吉か

ら表裏比興の者と言われたのに、

そのイメージに合わないものでし

た。

 

真田昌幸肖像画です。

 

ここで記念写真を撮影しました。

 

5年前にUPしたブログです。

 

今回はここまでで、次回に続く

 

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