角館 1 歴史 | みどりの木のブログ

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今回から久保田藩領内の角館紹介です。

2022年4月29日に訪問しました。

かなり以前に職場の同僚と角館を訪れ

ましたが、以前より賑やかになってい

ました。桜まつり期間ですが、すでに

桜はほとんど散っていました。

地球温暖化の影響なのでしょうか?

初めに今回は角館の歴史です。

 

角館の武家屋敷通りです。

火事のことを考えて道幅が広いです。

 

角館城は14世紀に菅氏による築城

と考えられています。

城は、桧木内川と院内川の合流地

点ちかくにそびえる急峻な城山

(標高166メートル)に築かれま

した。城山の東を流れる桧木内川

と北を流れる院内川が天然の水堀

の役割を果たしています。城山の

山頂に本丸を置いて、その四方に

曲輪を配していました。現在城下

町は城山の南にありますが、戦国

時代には院内川を挟んで北側にあ

りました。

 

角館の国土地理院等高図(上が北)

 

左が北の現在地にある案内板です。

 

角館城本丸付近から見た角館の町

(グーグルストリートビューから)

 

1424年に門屋城主の戸沢家盛は

、角館城主の菅利邦を滅ぼして、

本拠を角館に移しました。門屋城

は横手盆地の最北端に位置する城

で、約7km南にある角館城を手

に入れた戸沢氏は、戦国時代にさ

らに南へと勢力を拡大していきま

す。

 

グーグル地図です。

横手盆地は縦長の大きな盆地です。


1578年に13歳で家督を継いだ、

戸沢盛安は安東氏・小野寺氏・

南部氏などの、周囲の大名と争

い仙北郡(横手盆地の北半分)

を領有します。
1590年に豊臣秀吉の小田原

征伐の際、盛安はわずかな供

を連れて小田原で秀吉に謁見

しました。しかし、その直後

小田原で急死します。

盛安の嫡男:政盛が幼少であ

るため、弟の光盛が家督を継

ぎました。

戸沢氏は所領を安堵されます。

しかし、秀吉の命により角館

城をのぞく支城(戸沢三十五

城)が廃城となりました。
1592年の 朝鮮出兵への参陣

途上で光盛は急死しました。

兄の子:政盛はまだ幼少です

が家督相続を認められました。

1600年の関ヶ原の合戦では、

戸沢氏は東軍にとして上杉領

を小規模に攻撃しました。

そして戦後、家康から行動が

消極的だった事を理由に減転

封されて、政盛は常陸松岡城

主となります。
代わって出羽に入封した佐竹

義宣は、1589年に摺上原

の戦いで、伊達政宗に敗れて、

実家に落ち延びていた、実弟:

蘆名義広を角館城主に任じま

した。

 

久保田藩初代藩主の佐竹義宣です。

父は鬼義重などと言われましたが、

隠居後は息子の義宣に従いました。

ただ、関が原後で義宣は嫌がりま

したが、2年近くも義宣を説得し

て、徳川家康に謝らせました。

義重は偉大な父でした。義宣はそ

のおかげで東北一のかぶき者とも

言われ遊んでいられました。

 

佐竹家略系図です。

佐竹北家は義廉ー義直=義隣と

続きました。=は養子関係です。

佐竹北家8代目義隣が角館初代

 

赤枠で囲んだのがその兄弟です。

義広は跡継ぎのない、蘆名家が

揉めながらも決めた後継ぎでし

た。このため摺上原の戦いでは、

蘆名家側の戦闘意欲が低下して

負けました。20名ほどで義広

は佐竹氏の領国常陸に落ち延び

て、常陸の龍ヶ崎に4万石、次

いで江戸崎4万5000石を与えら

れ、大名としての蘆名氏は存続

します。

関が原後に佐竹氏が秋田に国替

えになると、義広も同行します。

同行した蘆名家臣は約200名で

した。秋田では角館1万6000石

を与えられました。

蘆名義広と伊達政宗は従兄弟同士

の間柄ですが、政宗は蘆名家相続

で恨みがあったようです。

「出羽国久保田藩角館」初代領

主である蘆名義勝が誕生(蘆名

義広は秋田入りの頃に、名前を

義勝に改めました)します。

蘆名義勝(義広)は城下を整備

して、現在の角館の元となる町

割りを行いました。

角館城の北側にあった城下町は

水害が多いので、城の南側に新

たに城下町を造りました。

下水道を整備し、内町(武家地)

と外町(町人町)の間に幅25m

の火除地も造り、道幅も広くし

ています。

武家屋敷通りは城の防衛施設と

しての機能も併せ持っている為、

通りは直線ではなく曲がり角の

あるクランク状(あて曲げ)に

して、屋敷の門・塀も低めに作

られています。

1620年では当時の武家屋敷は

250戸・町家420戸でした。

1620年に角館城は廃城となり、

(一国一城令の影響でしょう)

城主は麓の居館に移りました。

その後、角館蘆名氏は跡継ぎが

無くて3代で断絶します。

 

佐竹北家時代の古絵図です。

古城山は角館城跡です。

赤い太矢印が現在の石黒家です。

 

久保田藩は佐竹北家の8代目:

佐竹義隣を、角館に入封します。

佐竹義隣は権大納言:高倉永慶

の次男として京都で誕生。義隣

の母が佐竹義宣の妹であったた

めに、1628年に北家を相続し

て再興させました。

1656年に蘆名氏に代わり角館

所預(城代)となり、3600石

を領しました。義隣は公家の次

男なので、故郷を懐かしんで、

京に似た地形の角館の山河に

「小倉山」、「加茂川」など

と命名しています。このこと

から角館が小京都と言われる

わけです。

角館の蘆名家臣団のほとんどを

引き継いで家臣としています。

なので、久保田藩の家臣の家臣

に当たる角館の武士は陪臣でし

た。

以来400年近くが経ちました

が、特に内町(武家町)などは

ほとんどそのまま残っています。

 

幕末の古絵図ですが、赤枠に

現在もある石黒家があります。

石黒家は佐竹北家の義隣に従

い、勘定役・用人として角館

に入り、幕末に上の古絵図に

ある武家屋敷を先住武士から

買い取りました。

 

武家屋敷通りの石黒家

門と塀です。

 

人間の大きさと比較して

門と塀が低いです。

このために塀が長く見えて、

道が広く長く見えます。

視覚的な効果で立派に見え

ます。

 

今回はここまでで、次回に続く

 

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