盛岡城(日本100名城〉 10 淡路丸 | みどりの木のブログ

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毎日UPでブログ

肖像画追加で再UPしました。

前回の続きです。

今回は淡路丸です。

 

台所屋敷跡広場から淡路丸方向です。

近くの専門学校の生徒さんが

体育授業を受けていました。

淡路丸入口に行くと

 

下図⑫の淡路丸入口です。

桜の花びらが落ちています。

ここも明治維新後に造られた

石段です。鉄鎖も舟橋で使用

されていた鎖です。

 

下が北の案内板です。

 

石段の上にあがると

 

上図⑬から見た淡路丸内です。

 

⑭の方に行くと

 

御手洗いの後ろに井戸跡

があります。

(グーグルストリートビューより)

 

この付近は桜の絨毯でした。

 

⑭付近にある野ずら積の

盛岡城で一番古い石垣です。

 

 

 

⑭の野ずら積部分を拡大しました。

石垣の加工をせずに積んだ石垣

です。近江の穴太衆によるもの

です。

 

⑮付近に行くと

 

上図⑮から⑯方向です。

赤矢印に桜山神社跡石碑があります。

 

上図⑯の桜山神社跡石碑です。

桜山神社は寛延2年(1749)第8代

藩主南部利視が初代南部信直の功績を

称え、ここに社殿を建立したのが始ま

りとされます。当初は城内の淡路丸に

にあったことから淡路丸大明神と称さ

れました。

 

8代藩主の南部利視肖像画です。

兜飾りも鳥居です。

 

南部信直肖像画です。

 

南部氏略系図です。

南部光行は陸奥国糠部五郡の土地を

給され、1191年の末に家臣数十人

とともに入国したと家伝で伝えます。

ます。25代を幼少の晴継が継ぎま

すが、13歳で病死(または暗殺)

により、26代目を信直が継ぎまし

た。信直は秀吉の小田原攻めに早く

から駆け付け、秀吉の信頼を得ます。

秀吉の援軍で、晴継派との同族争い

に勝利しました。


文化9年(1812)に神社付近にあっ

た桜の木にちなみ櫻山大明神と改名

しました。盛岡城の廃城に伴い明治

4年(1871)に、加賀野 妙泉寺に,

さらに明治 10 年(1877)に南部

家菩提所の麓に遷座し,明治 32 年

(1899)3度目の遷座により、現

在地の烏帽子岩横に鎮座しました。

 

淡路丸で八重桜が咲いていました。

 

桜の花びら散る淡路丸です。

 

⑮付近から⑱方向です。

咲いている桜もまだまだ

あります。

 

下が北の案内板です。

 

⑮付近から本丸石垣方向です。

 

⑮付近から本丸石垣と

腰曲輪方向です。

 

⑯付近から本丸石垣と

腰曲輪方向です。

 

 

 

⑰付近から石垣下の帯曲輪です。

 

⑲付近から二重隅櫓跡方向です。

(グーグルストリートビューより)

 

もりおか歴史文化館の模型です。

 

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