昨日の続きです。
今回は大手道を西門から陣屋御殿
表門までです。
下図⑥から⑦方向です。
西門を入った所です。
武家屋敷の区画が残ります。
江戸時代後期の柳本陣屋の
大手道拡大図です。(下が北)
赤い線に沿って歩きます。
⑦付近から⑥方向を見ると
上図⑦手前付近から⑥方向です。
⑦付近に行くと
下図⑦付近から⑥方向です。
⑦付近から堀(古墳周濠)方向の写真は
⑦付近から黒塚古墳が見えます。
黒塚古墳解説板です。
3世紀後半の古墳で、三角縁神獣鏡
が33枚も出土しています。
この柳本の南には巻向遺跡があり、
古代の大和政権首都と言われます。
古代大和政権での重臣の墓とされて
います。
展示館は後に行きます。
下図⑦から⑧方向です。
上図⑧付近から撮影した元辻家の
長屋門です。今は名字が変わって
います。家臣は廃藩後に藩主織田
家とともに、東京に移住した可能性
が高いです。
古墳側から見ると
古墳側から見た大手道です。
下が北です。
上図⑨から⑧方向です。
下図⑨から堀方向⑩(南方向)です。
堀は埋め立てられました。
⑩付近に行くと(下が北)
堀跡の溝がわずかに残ります。
グーグルで見た藩主御殿堀跡です。
⑧から右に曲がった⑩方向です。
⑩付近に石垣が少しだけ残ります。
(下が北)
⑩付近僅かにここだけ石垣が
残ります。
下図⑪付近から藩主御殿方向です。
石垣跡がコンクリートになっています。
1万石の小藩陣屋なのに、
こんなに立派な堀まである
のは驚きです。もともとは
柳本城があったので、城
のように見えます。
⑫の角の所に行くと
上図⑫付近から⑭方向です。
ここで曲がります。
現地の防災マップです。(上が北)
堀跡を水色で塗りました。
下図⑭付近に藩主御殿表門跡らしき
柳本小学校裏門があります。
恐らく校舎の建て替え前は、この門
が、小学校の表門だったのでしょう。
⑭の藩主御殿入口には、上図のように
番所がありました。(下が北)
上図⑬付近から⑭方向です。
御殿表門を入ると
橿原神宮に橿原神宮文華殿として、
1967年に移築された、藩主表向
御殿です。写真は御殿玄関です。
幕末に再建されたので残っていま
す。
藩主御殿が柳本小学校校舎
として使われていた当時の古
写真です。(柳本小学校より引用)
附近の防災マップです。(上が北)
赤い線に沿って歩きました。
南北の御殿堀跡を水色で
塗りました。
今回はここまでで、明日に続く
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