宇陀松山城(続100名城) 14 春日門跡 | みどりの木のブログ

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昨日の続きです。

今回は春日門跡までです。

 

下図①付近から②方向です。

春日神社を出る所です。

 

1594年の豊臣時代下

古地図を拡大しました。

豊臣時代に西口関門か

ら、春日門につながる

大手道が整備されまし

た。(上が東)

 

拡大前の全体図です。

右端の秋山氏時代の大手門の

名前はそのまま残りました。

 

 

下図②から④方向の参道です。

参道の右側は織田家後期には

宇陀松山藩藩屋敷で、左側は

向屋敷でした。

 

1594年頃まで阿貴町と言い

ましたが、今より松山町とあり

ます。豊臣時代に目出たい町

名にしたいと考えて、「松」は

目出たいから、松山町に改名

しています。城も同様で、この

時代はこのような改名が多い

です。例えば松本城は深志城

と言いましたが、「志→死」と

同じ発音なので縁起が悪い

からと、地元の町名にあった

、松本に改名されています。

武士は戦いで負けると死ぬ

ことがあり、それは避けたい

のでしょう。福岡城も「福」

は縁起が良いからと、故郷

(岡山県)の地名を使って

改名しています。

 

上図②から③方向です。

織田家時代の3代藩主

織田長瀬治世の1670

~この付近が藩政の中

心となり、武家屋敷が

出来ました。

 

織田長瀬治世の1670年ころ、

上屋敷や武家屋敷・足軽屋敷

などがあります。

 

下図④から⑤方向です。

通路の右側は上屋敷でした。

カメラを少し右に回すと

 

下図④から⑤方向です。

この付近に櫓門があり

ました。

 

(上が東)

 

上図⑤から④方向です。

下図よりこの階段に門があり

さらに階段の上を左に折れる

と、そこには櫓門が西向きに

ありました。(下図)

 

現地にある解説板です。

ここで枡形になっていました。

 

現地にある解説板です。

現存の枡形は織田家松山藩時代

に再構築されて、下図にあるような

上屋敷・向屋敷が造られています。

 

織田家松山藩時代後半の

古絵図です。

 

下図⑤から⑥方向です。

 

(上が東)

 

上図⑥付近から⑤方向です。

 

今回はここまでで、明日に続く

 

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