昨日の続きです。
今回は春日門跡までです。
下図①付近から②方向です。
春日神社を出る所です。
1594年の豊臣時代下
古地図を拡大しました。
豊臣時代に西口関門か
ら、春日門につながる
大手道が整備されまし
た。(上が東)
拡大前の全体図です。
右端の秋山氏時代の大手門の
名前はそのまま残りました。
下図②から④方向の参道です。
参道の右側は織田家後期には
宇陀松山藩藩屋敷で、左側は
向屋敷でした。
1594年頃まで阿貴町と言い
ましたが、今より松山町とあり
ます。豊臣時代に目出たい町
名にしたいと考えて、「松」は
目出たいから、松山町に改名
しています。城も同様で、この
時代はこのような改名が多い
です。例えば松本城は深志城
と言いましたが、「志→死」と
同じ発音なので縁起が悪い
からと、地元の町名にあった
、松本に改名されています。
武士は戦いで負けると死ぬ
ことがあり、それは避けたい
のでしょう。福岡城も「福」
は縁起が良いからと、故郷
(岡山県)の地名を使って
改名しています。
上図②から③方向です。
織田家時代の3代藩主
織田長瀬治世の1670
~この付近が藩政の中
心となり、武家屋敷が
出来ました。
織田長瀬治世の1670年ころ、
上屋敷や武家屋敷・足軽屋敷
などがあります。
下図④から⑤方向です。
通路の右側は上屋敷でした。
カメラを少し右に回すと
下図④から⑤方向です。
この付近に櫓門があり
ました。
(上が東)
上図⑤から④方向です。
下図よりこの階段に門があり
さらに階段の上を左に折れる
と、そこには櫓門が西向きに
ありました。(下図)
現地にある解説板です。
ここで枡形になっていました。
現地にある解説板です。
現存の枡形は織田家松山藩時代
に再構築されて、下図にあるような
上屋敷・向屋敷が造られています。
織田家松山藩時代後半の
古絵図です。
下図⑤から⑥方向です。
(上が東)
上図⑥付近から⑤方向です。
今回はここまでで、明日に続く
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