昨日の続きです。
今回は本丸です。
本丸の一部分を見学させてもらいました。
多聞山城の想像図です。
本丸周囲は土塁上に白壁漆喰
で、瓦葺の多聞櫓(長屋)に囲
まれていました。なので防火力
のある造りでした。それまでの
城には無い構造です。
1577年の解体時に「高矢倉」
と呼ばれた四階櫓があり、これ
が四重天守相当の建物でした。
本丸御殿は二階建てで、室内
には狩野派絵師の絵画があり
ました。信長のものになってい
た、1575年に訪問した、島津
家久の日記によると、常御殿
は2階建てで、楊貴妃の間が
あったそうです。
立派な茶室と庭園もありました。
昨日は⑤まででした。
⑦の所に土塁跡があるので、
そこに行きました。
上図⑥付近です。
カメラを左に90度回した本丸跡は
若草中学の校舎です。
1階は生徒入口のロッカー室です。
土塁跡⑦の方に行くと
上図⑦付近です。
校地のヘリに土塁があります。
校地のヘリが土塁により高く
なっています。
この土塁の上に多聞櫓があっ
たようです。この山はもともと
眉間山と言いましたが、松永
久秀が多聞天を祀り、多聞山
と改名しました。
なので、先進的な多聞城の
櫓を多聞櫓と言うようになっ
たようです。
発掘調査されたときの写真です。
土塁が撤去された所でも、発掘
すると土塁跡が確認されます。
発掘で出土した瓦です。
1560年代には瓦や白漆喰を使っ
た城はほとんどなく、屋根は檜皮
葺などでした。
次に下図⑧の方に行きます
上図⑨の若草大橋が見えます。
上図⑧付近の若草大橋です。
下図⑨付近の橋の上です。
橋の向こう側は若草中学の
グラウンドになっています。
グラウンドは城外でした。
この橋の下に大堀切があ
ります。若草大橋は当時
ありませんでした。
⑨から⑪方向の写真は
⑨から⑪方向の空堀跡です。
反対側の橋の上から南方向は
上図⑨から南方向です。
今回はここまでで、明日は
北側の空堀跡です。
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