多聞山城 4 本丸まで | みどりの木のブログ

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毎日UPでブログ

奈良県庁を奈良市役所と書いたので

訂正し再UPしました。

昨日の続きです。

今回は本丸までです。

 

中学の門ですが、ここには

下にあるような遺構の門が

あったとと考えられます。

この門の両側には土塁が

あります。

門の前には空堀があった

ようです。(下図より)

 

後世の江戸時代に描かれた

多聞山城です。(上が北)

(広島藩作成の浅野文庫より)

 

解説板です。

左側を拡大すると

 

1576年に廃城にされました。

建物の一部は旧二条城や安土城

に移築されました。石材は破却した

筒井氏の筒井城に運ばれました。

筒井城には石だけでなく、門も移

築されたようで、奈良の旧家中家

の隣にある石田家門が、多聞城

のものと伝わります。

 

多聞山城の門と伝わる、

石田家の門です。

当主が高齢のために、

ここでは暮らしていない

そうで、イベント業者に

家を貸しているそうです。

文化財に指定されてい

ないので修理が出来ず

荒れています。

(2018年の撮影)

 

近づき撮影しました。

 

多聞城想像図です。(右が北)

 

後世の江戸時代に描かれた

多聞山城です。

 

 

門を入った下図①と②の間です。

中学の校舎建設のために、

車両通行用の道がありま

す。右にカーブした赤い線

の道です。この道で本丸

に上がります。

中央石段の右側に石碑

があります。

 

赤い線に沿って本丸に上がります。

(グーグル地図です)

 

多聞城跡の石碑です。

 

上図②付近で振り返ると

 

正門の両側には土塁があります。

 

車両用の道をあがります。

 

下図③付近です。

ここから奈良市内が良く見えます。

ここから見える石仏や墓石は発掘

で出土したものを、ここにまとめて

います。

もともと眉間寺だったので、そこに

あった石仏・墓石でしょう。

 

 

 

さらに少し上がった所です。

 

多聞山城から見た奈良市内

の地図です。

大和は戦国時代になっても

寺院勢力に支配されていま

した。筒井順慶も入道となり、

興福寺のお坊さんでもあり

ました。

 

筒井順慶肖像画です。

 

三好家の威光で松永久秀

が武家支配を計りますが、

寺院勢力の筒井氏などと

争っていました。

 

下図④付近からの眺めです。

 

 

 

上図④付近です。

 

上図④から⑤方向です。

 

下図⑤付近です。

 

 

今回はここまでで、明日に続く

 

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