多聞山城 1 歴史 | みどりの木のブログ

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今回からは多聞山城の紹介です。

今日はその歴史です。

2022年1月25日に訪問しました。

 

多聞山城の築城者の松永久秀は

大阪府高槻市にある東五百住の

の出身と言われます。

 

松永屋敷絵図です。

高槻市立しろあと歴史館より引用

 

摂津嶋上郡の民間より出て、始め

は貧しい者でした。

神峯山寺の毘沙門天を信仰した

ようです。中風の持病があったそ

うです。

 

松永久秀肖像画です。

高槻市立しろあと歴史館より引用

 

茶人でもある久秀は、顔から武闘

派ではない印象がうかがえます。

弟の長瀬は武功をたてて、三好

長慶から丹波攻略を命ぜられる

ほどの重臣でした。おかげで久秀

も長慶に取り立てられます。

長慶から久秀は大和の攻略を命

ぜられます。

 

三好長慶肖像画です。

後継ぎの実子が無いので、そのた

めに、死後は三好家がまとまらな

くなります。

久秀とは気の合いそうな顔です。

 

1559年に大和の支配者であっ

た筒井順慶を、三好家の後ろ盾

で圧倒して大和国人衆を支配し

ます。

大和支配と南都の拠点として、

奈良の町を見下ろす眉間山に

あった眉間寺を横に移転させて、

その後に多聞山城を築城して、

眉間山を多聞山と改名します。

 

奈良の地図です。

多聞山城付近を拡大すると

 

多聞山城は標高115m、比高30mの

多聞山に築城されました。

城には多聞天を祀り多聞山城と呼ばれ

ます。

 

江戸時代に描かれた多聞山城跡

絵図です。移転させられた眉間寺

が左端に描かれています。

 

西ケ谷氏による想像図です。

この絵図は右が北です。

本丸の周囲に長屋風の建物があ

りますが、これが多聞櫓の始まり

でした。白壁の多聞櫓や本丸に

主殿、会所、庫裏の座敷など豪

華な建築が建ち並び、庭園、金

工の太阿弥の引手などの内装や

狩野派絵師の絵画で室内を装飾

していました。庫裏は久秀の常

御殿でした。信長のものとなり、

1575年に訪問した島津家久の

日記によると、常御殿は2階建

てで、楊貴妃の間があったと

しています。千田先生は詰の丸

に久秀屋敷と重臣家臣屋敷が、

同居していたが、西の丸は一段

低い西隣の小丘の聖武天皇陵

に築かれたとしています。また、

1577年の解体時に「高矢倉」

と呼ばれた四階櫓があり、これ

が四重天守相当の建物でした、

当時は西日本一の豪華な城で

した。

 

 

しかし、弟の長瀬が丹波黒井城

の攻略で打ち取られます。

このために久秀の三好家内での

発言力が低下します。その上に

取り立ててくれた三好長慶が享

年43で病死して、その1564年

から三好三人衆と合同で三好家

の運営をします。

1565年の足利義輝暗殺以降は、

三人衆との関係が次第に悪化し

ていき、同年11月に三人衆は

筒井順慶と連合軍を組みます。

1566年に連合軍は筒井城を奪

還します。

1567年には東大寺に布陣して、

大仏殿を要塞化して、多聞城に

迫りました。多聞山城から同年

10月に東大寺に襲いかかり、

東大寺大仏殿の戦いとなります。

これに久秀は勝利します。

1568年の信貴山城の戦いで

は久秀は信貴山城を失います。

久秀は三好本家跡継ぎの三好

義継と同盟していましたが、じり

貧状態になります。

 

三好義継肖像画

 

1568年に久秀は芥川山城で

信長に拝謁して服属し、織田

軍2万の援軍を引き連れて、

信貴山城を逆に攻城して、落

城から4ヵ月で、順慶・三人衆

連合軍から再奪取に成功しま

す。

ところが、筒井順慶も信長に

降伏したので、仲の悪い同僚

となります。大和が順慶には

地元なので有利となりました。

久秀は足利義昭が画策した、

信長包囲網に加わり三好義継

と共に、信長に謀反を起こし

信貴山城に立て籠ります。

1573年に武田信玄が病死、

義昭が信長に追放され、三好

義継も若江城の戦いで討たれ

ました。

佐久間信盛の軍に多聞山城

を囲まれ和議を申し込み降伏

します。信長は佐久間信盛に

「多聞山城を没収して赦免す

るよう」指示しており、信長が

同城にある茶器などの宝物

や御殿など建物を惜しんだ

ためと言われます。

信長家臣の武将が留守番役

となります。

1574年に信長が多聞山城に

入城し検分してから、翌日に

は正倉院に伝わる、名香の

「蘭奢待」を長持ごと多聞山

城に運ばせ、同城の舞台で

蘭奢待を一尺八寸切り取り

配下に見せます(『信長公記』)。

その後、大和の守護に筒井

順慶が任命されます。織田

信長は郡山城以外の、多聞

山を含めた城の破却を命じ、

1576年に順慶は京都所司

代の村井貞勝の監督のもと、

多聞山城の破却工事が始ま

ります。

1577年6月頃には建物は

破壊され城があった期間は

わずか16年間でした。

建材は村井貞勝が差配して

京都に運ばれ旧二条城に

活用されました。石垣の石

は筒井城に運ばれました。

その後、大和郡山城に運ば

れています。他の国人の城

も破却されました。

1577年8月に久秀は再び

信長に謀反をおこし信貴山

城に立て籠もりますが自害

しています。

 

現在の多聞山城跡です。

現在は奈良市立若草山中学です。

 

解説板です。

 

解説板を拡大しました。

 

今回はここまでで、明日に続く

 

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