土浦城(続日本100名城) 1 歴史 | みどりの木のブログ

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今回から土浦城(続日本100名城)の

紹介です。2021年8月8日に訪問し

ました。天候は雨でした。

今日はその歴史です。

土浦城は何度も水害に遭っていますが、

本丸が水没することなく、水に浮かぶ亀

の甲羅のように見えたので、別名亀城

(きじょう)ともいわれます。

 

土浦市立博物館にある

江戸時代の本丸模型で

す。亀に似ています。

 

土浦城周辺のグーグル地図です。

 

現地解説板による土浦城の歴史です。

 

平安時代

 

947年に平将門が砦を築いた、

という伝説があります。

 

室町時代

文献上確かなのは室町時代の、

1440年頃に常陸守護の八田

知家の後裔で、小田氏家臣の

若泉三郎が築いたと記されて

います。

1516年に小田氏家臣の菅谷

勝貞が若泉五郎右衛門を滅ぼ

し、その家臣の信太範貞が城

代となり、後に菅谷勝貞の居城

になります。その後は、菅谷氏

が勝貞・政貞・範政の三代に

わたって、土浦城主でした。

 

戦国時代

 

佐竹氏が勢力を広げると、

佐竹氏により本拠の小田城

を奪われた、小田守治が土

浦城に入城しました。

 

安土桃山時代

 

1590年に豊臣秀吉による、

小田原征伐時に菅谷範政は

後北条氏と結んだため佐竹

氏や徳川家康の軍勢に攻

められ、主君小田氏とともに

滅亡しました。
関東に入封した徳川家康は、

土浦城を次男で結城氏に養子

入りした結城秀康に与えます。

土浦城を徳川領内の支城とし

ました。

 

結城秀康肖像画です。

 

土浦城は徳川家の結城秀康

のものになり、小田氏支流は

その家臣になりました。

 

江戸時代

 

1601年に結城秀康が越前

国に転封になり、藤井松平

氏の松平信一が3万5千石

で入封し、土浦城の城主と

なります。信一と子の信吉(

5千石加増)が現在の城の

おおよその形を造りました。

 


本丸に櫓門とあるのが太鼓櫓です。

古いのでひび割れしています。

1617年に松平信吉が上野

国の高崎に転じると、土浦

には西尾忠永が2万石で

城主になります。忠永の子:

忠照は1620年から7年か

けて西櫓と東櫓を造ります。

1622年には本丸の正門

を櫓門に改修します。

本丸は水堀と柵つき土塁、

三つの櫓で守られるように

なります。

 

内堀と土塁で囲まれた本丸です。


1649年朽木稙綱が城主

となり、1656年に櫓門を

現在ある形の太鼓櫓門に

改築します。

 


改修された太鼓櫓です。

1669年には土屋数直が

4万5千石で入封します。

土屋家はもと武田家の家

臣で、武田家の滅亡後に

家康に仕え、数直の代に

大名になりました。土屋家

の本姓は平氏です。家系

は桓武平氏の一つ高望

王の系譜で平良文を祖

とします。平良文の6代孫

土屋宗遠を初代とします。

相模国の大住郡土屋(現

神奈川県平塚市土屋)か

ら起こったため、土屋姓

を名乗りました。

1682年大河内松平家

信興の時代(1684年)

には大改修が実施され、

普請奉行は松平家臣で

山本菅助(戦国期の甲斐

武田家の家臣山本勘助

の子孫)で、大手口・搦手

口は武田流の築城術に

より普請されました。

 

江戸時代の土浦城です。

 

江戸時代の本丸模型です。

 

1687年に土屋政直が

再び6万5千石で入封し

ます。4人の将軍に仕え

ますが、徳川吉宗の擁立

に尽力します。

吉宗は将軍になると老

中らに口頭試問をした

のですが、なんとか恥

を掻かずに済んだのは

3問中2問を答えること

ができた政直のみでし

た。

1698年に老中首座と

なります。 有能なので

3度の加増を受けたため、

石高は9万5千石となり、

常陸国では水戸藩に次

いで大きな領地を支配し

ます。

以後土屋家が11代の

約200年に渡り城主と

して明治維新になりま

す。

 

明治維新後


1873年(明治6年)には、

太政官符で土浦城は廃城

にされます。本丸御殿は

新治県の県庁になり、後

に新治郡の郡役所として

使われます。本丸の他の

建造物もほぼ残されます

が、土塁上の塀は取り壊

されました。二の丸以下

の建物は外丸御殿を除

いて取り壊され、堀が

埋められました。

 

1884年に火災で本丸

御殿が焼失します。この

とき損傷した本丸東櫓と

鐘楼が撤去されます。

御殿跡には郡役所の建

物が建てられました。

 

新治郡役所と霞門古写真です。

 

霞門が東櫓の上にあります。

 

現在の霞門です。

 

本丸の郡役所と太鼓櫓門

古写真です。

 

1899年に本丸と二の

丸南側が亀城公園に

なります。

1926年(昭和元年)に

郡役所が廃止となります。

1932年に建物を移築し

、移築後に本丸は整地

されて広場になりました。

 

第2次世界大戦後

 

1998年(平成10年)には

東櫓が土浦市立博物館の

付属展示館として復元され

ました。

2011年に東日本大震災

の影響を受け、太鼓櫓門、

東櫓、西櫓とすべての建

造物が破損します。

とくに東櫓と西櫓は白壁の

欠落など大きく破損します。

東櫓展示館も閉館を余儀

なくされました。

 

西櫓の被害状況です。

 

2012年6月までに、櫓門、

東櫓、西櫓、土塀などの

修復工事が終了します。

そして一般公開が再開さ

れました。

2017年に続日本100

名城に選定されました。

 

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