二本松城(日本100名城) 7 見晴台から搦手門まで | みどりの木のブログ

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1日おきに更新しています。

昨日の続きです。

今回は見晴台から搦手門までです。

 

見晴台⑯から安達太良山が

見えませんが、桜の花が残

っていたのが幸いでした。

 

搦手門の方に登ります

 

ウッドチップのひかれた

登山道は歩きやすいです。

 

上図⑰の搦手門です。

搦手門石垣が見えてきました。

 

下図搦手門と書かれた位置です。

広場には休憩所があり

桜が咲いていました。

 

本丸附近の等高線地図です。

 

回り込むと

 

上の方に本丸石垣が見えます。

右にカメラを回すと

 

下図⑰にある搦手門跡です。

 

 

 

正面から見た搦手門跡です。

(グーグルストリートビューより引用)

 

解説板です。

 

豊臣秀吉が1590年に

蒲生氏郷に会津を与え

て、蒲生郷成が城代に

なりました。この時期に

石田三成が検地奉行

として二本松城に滞在

しています。

1590年頃に裏門とし

て掘立柱(直径30cm)

で搦手門が建てられま

した。

 

これも現地にある解説板です。

 

蒲生家時代(1601~1627年)は、

掘立柱の冠木門でした。

丹羽家時代(1643~1868年)は、

初代丹羽光重の頃に両側に石垣の

ある高麗門になりました。

その門は柱の礎石が残ります。

柱間は3.2mあり、1.4m幅の扉

2枚の門でした。

 

丹羽家時代の搦手門柱の礎石です。

 

第1期は蒲生家時代で、

第2期は丹羽家時代です。

 

搦手門内です。この道の先には

新城館があります。

写真が無いのでグーグルストリ

ートビューから引用すると

 

新城館です。

二本松少年隊隊士たちが

ここで戦闘訓練をしたそう

です。下図搦手門の下に

描かれています。

少年隊顕彰石碑があります。

 

江戸時代中期丹羽家時代の

搦手門が描かれた絵図です。

 

1601年に蒲生家の支城で

あった頃に、2人の城代が

いて、新城館は西城にあた

る所でした。

また、畠山氏の時代にも

御殿があり、伊達政宗に

攻められたときに、自焼

して開城したそうです。

搦手を守る要の曲輪です。

 

左手にある本丸への登り口です。

ここから少し登った所から

搦手門跡を見ると

 

上から見た搦手門跡です。

 

 

今回はここまでで、明日に続きます。

 

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