昨日の続きです。
今回は搦手門から本丸です。
下図Aの少し手前にあります。
奥州探題畠山氏居城「霞ヶ城址」
の石碑があります。探題とは守護
職にあたるものです。
四代畠山高国は1346年に奥州
探題に補任され、二本松に下り、
北朝の拠点となります。当時の奥
州は石塔.吉良・畠山・斯波(大崎)
家の四探題制で、奥州探題は一家
だけではなかったのです。その後、
伊達氏は大崎氏を武力で圧倒して、
支配下に置くようになり、伊達家も
奥州探題に任命されています。
東北地方は室町時代に出羽国に
置かれた、幕府役職の羽州探題
(山形城の最上家)もあります。
羽州探題の成立は1356年奥州
探題斯波家兼の次男:斯波兼頼
が、出羽国按察使として山形に
入部して最上氏を名乗ったのが
始まりでした。最上氏のことは前
回の山形城で紹介しています。
解説板です。
現地にある等高線地図です。
赤い線に沿って歩きました。
本丸は3方向に尾根を持つ
山です。
上図Aにある本丸石垣です。
下図⑩面の石垣です。
平成7年の石垣修復工事
できれいになりました。
ここにある解説板は
本丸の地図です。
⑩面石垣の断面図です。
⑩面石垣は表面石垣(加藤家時代)
と、内部に古い旧石垣があり、これ
は蒲生家時代のものです。
Bから石段を上がります。
上図B地点から石段を
上がる所です。
上にあがり右に曲がると
この辺りは枡形内になります。
直進して
左側石段の上が本丸です。
本丸内から見た天守台です。
左端には戊辰戦争で切腹し
た城代と勘定奉行の石碑が
あります。
城代と勘定奉行自刃の石碑です。
戦いの責任をすべて取っての割腹
自尽でした。
幕末期の第10代藩主丹羽長国は
江戸湾警備・京都警衛・天狗党の
乱鎮圧などで活躍しました。戊辰
戦争では奥羽越列藩同盟に参加
して新政府軍と戦いますが、各地
で敗戦を重ねて1868年7月28日
に、長国は米沢藩に避難し、翌日
に二本松城は落城します。長国
は9月に降伏して、自身の隠居を
条件として、丹羽長裕(米沢藩主:
上杉斉憲の子)が養嗣子として、
跡を継ぐことが認められます。
なお、このときに石高が5万石も
減らされました。
10代藩主の丹羽長国の古写真です。
左にカメラを回すと
本丸広場です。
今回はここまでで、明日に続きます。
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