二本松城(日本100名城) 8 搦手門から本丸と奥州探題 | みどりの木のブログ

みどりの木のブログ

毎日UPでブログ

昨日の続きです。

今回は搦手門から本丸です。

 

下図Aの少し手前にあります。

奥州探題畠山氏居城「霞ヶ城址」

の石碑があります。探題とは守護

職にあたるものです。

四代畠山高国は1346年に奥州

探題に補任され、二本松に下り、

北朝の拠点となります。当時の奥

州は石塔.吉良・畠山・斯波(大崎)

家の四探題制で、奥州探題は一家

だけではなかったのです。その後、

伊達氏は大崎氏を武力で圧倒して、

支配下に置くようになり、伊達家も

奥州探題に任命されています。

東北地方は室町時代に出羽国に

置かれた、幕府役職の羽州探題

(山形城の最上家)もあります。

羽州探題の成立は1356年奥州

探題斯波家兼の次男:斯波兼頼

が、出羽国按察使として山形に

入部して最上氏を名乗ったのが

始まりでした。最上氏のことは前

回の山形城で紹介しています。

 

解説板です。

 

現地にある等高線地図です。

赤い線に沿って歩きました。

本丸は3方向に尾根を持つ

山です。

 

上図Aにある本丸石垣です。

下図⑩面の石垣です。

平成7年の石垣修復工事

できれいになりました。

 

ここにある解説板は

 

本丸の地図です。

 

 

 

⑩面石垣の断面図です。

⑩面石垣は表面石垣(加藤家時代)

と、内部に古い旧石垣があり、これ

は蒲生家時代のものです。

 

Bから石段を上がります。

 

上図B地点から石段を

上がる所です。

 

 

上にあがり右に曲がると

 

この辺りは枡形内になります。

直進して

 

左側石段の上が本丸です。

 

 

 

本丸内から見た天守台です。

左端には戊辰戦争で切腹し

た城代と勘定奉行の石碑が

あります。

 

城代と勘定奉行自刃の石碑です。

戦いの責任をすべて取っての割腹

自尽でした。

 

幕末期の第10代藩主丹羽長国は

江戸湾警備・京都警衛・天狗党の

乱鎮圧などで活躍しました。戊辰

戦争では奥羽越列藩同盟に参加

して新政府軍と戦いますが、各地

で敗戦を重ねて1868年7月28日

に、長国は米沢藩に避難し、翌日

に二本松城は落城します。長国

は9月に降伏して、自身の隠居を

条件として、丹羽長裕(米沢藩主:

上杉斉憲の子)が養嗣子として、

跡を継ぐことが認められます。

なお、このときに石高が5万石も

減らされました。

 

10代藩主の丹羽長国の古写真です。

 

左にカメラを回すと

 

本丸広場です。

 

今回はここまでで、明日に続きます。

 

読者募集中ですので、読者登録はここのリンクです。

希望があれば、読者相互登録出来ます。

毎日午後8時半~9時頃に更新しています。
登録では「相手わかるように」に設定して読者登録してください。
読者様のブログは拝見に行き、「いいね」やブログ村・ブログラン

キングは出来るだけ押しに行きます。

 

Ctrlキーを押したままで、ポチしたら画面が飛ばされません。
 お手数ですが、よろしく。下矢印ダウンぽちっと下矢印ダウン押すだけ
                                              にほんブログ村 歴史ブログへ

 

                                               ブログランキング・にほんブログ村へ

 

                                               にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ

 

                                               にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ

                                               
                  お願いします。