伏見城 1 歴史 | みどりの木のブログ

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1日おきに更新しています。

今回から伏見城の紹介です。

初めにその歴史からです。

 

豊臣秀吉隠居屋敷時代

 

豊臣秀吉が1591年に関白の位と、

聚楽第を豊臣秀次に譲った際に、

自らの隠居所として伏見の地に築

いた屋敷が始まりです。この屋敷

は1592年8月に、秀吉が観月の

名所である指月周辺を散策して、

場所を決定し、8月24日には東西

約500mで南北約200mの区画

割りがなされて、9月3日に着工し

ます。12月には秀吉が利休好み

の趣向で造らせるよう指示してい

ます。

聚楽第周辺から多くの町民が移住

したと考えられ、今でも「聚楽町」

の地名が伏見地区にあります。

 

伏見(指月)城時代

1593年に明との講和交渉が始まり、

明の使節を迎え日本の国威を見せつ

ける目的で、秀吉の隠居屋敷は城と

する大規模な改修が行われました。
築城は1594年から本格的に始まり、

普請奉行に佐久間政実が任命され、

石材は讃岐国小豆島から、木材は

土佐国、出羽国からも調達されます。

同年4月には淀古城から天守、櫓が

移建さます。同年10月には御殿が

完成し、1595年に秀次事件が起

きると、同年7月には破却した聚楽

第からも建物が移築され、宇治川

の対岸にある向島にも伏見城の

支城、向島城が築城されました。

1596年に「慶長伏見地震」あり、

天守の上二層が倒壊する大きな

損害を受けます。『慶長記』による

と慶長伏見地震から6日後の、明

使節の馬揃が中止されます。

 

2020年に発見された江戸時代

の豊臣秀吉木造です。

 

豊臣秀吉は伏見城にいて、『当代

記』によると女﨟74名、中居500

名が死亡したが豊臣秀吉は無事で、

夜が明けて指月伏見城から北東方

向約1kmの高台にある木幡山城に

移りました。 まぼろしの指月城の

存在は、木幡(こはた)山に逃げた

ことを書いたキリスト教宣教師の

文献や発掘調査などで知られます。

 

伏見城周辺図(日本の城より引用)

伏見城の南側には巨椋湖がありま

した。

 

発掘調査で出土の指月城石垣です。

 

指月城出土の金箔瓦です。

豊臣家の桐紋があります。

 

赤い印が指月城跡のグーグル地図です。

 

木幡山は桃山とも言われ、安土

桃山時代の桃山です。

 

伏見(木幡山)城時代

1596年に伏見城は大地震に見舞われ

ますが、火災は起きなかったようで、櫓

や御殿の木材などが再利用可能でした。

起きた2日後、同年7月15日に木幡山

伏見城の作事が着手されます。本丸が

完成したのは同年10月10日でした。

1597年5月には天守閣と御殿が完成

し豊臣秀吉が入城します。

 

豊臣期の伏見城本丸絵図です。

 

伏見城縄張図です。

 

この伏見城は、本丸の西北に天守閣が

あり、西方に二の丸、北東部に松の丸

、南東部に名護屋丸、曲輪下には三の

丸、山里丸等の曲輪を配し、出丸部分

を加えると12の曲輪がありました。

 

江戸時代浅野家作成の縄張図です。

北西部の曲輪はすでに放棄されて

いたのか描かれていません。

 

秀吉時代の伏見城です。(日本の城

より引用)伏見城の縄張図と現代地

図の合成図です。

 

豊臣期の伏見周辺図です。

(世界の歴史マップより引用)

 

豊臣秀吉は大坂城と伏見城を行き来

していますが、晩年は伏見城で暮らし

たようです。

1598年8月伏見城で亡くなります。

 

徳川家康時代

 

豊臣秀吉の遺言により豊臣秀頼は、

1599年1月に大坂城へ移ります。

徳川家康は同年3月13日に留守

居役として伏見城に入城します。

その後、徳川家康も同年9月には

大坂城西の丸に移ります。
徳川家康が大坂城に移ると伏見

にあった大名屋敷のほとんどが

大坂に移りました。

この時の様子を、「諸大名悉く大坂

へ家居以下引越され候、伏見の儀

は荒野に罷り成る可き躰に候」と
『島津義弘書状』にあります。


1600年6月に徳川家康は会津

征伐にいきます。この時、伏見城

は小早川秀秋と島津義弘が鳥居

元忠が城代となっている伏見城を

攻撃します。伏見城は炎上して

落城しました。

 

伏見城で戦死した鳥居元忠肖像画です。


関ヶ原の戦い勝利後、徳川家康

は伏見城と二条城の再建を開始し

ます。再建では弾正丸、大蔵丸、

得善丸、御花畑山荘と呼ばれて

いる北西部の曲輪群とそれを取

り巻く堀は放棄されます。1602

年6月には藤堂高虎が普請奉行

に起用されます。

 

秀吉時代の伏見城です。

 

1602年12月には徳川家康が

伏見城に帰城します。再建され

た建物の瓦には豊臣家の家紋

桐紋が使われていました。

大坂城に移っていた大名屋敷

が伏見城下に戻ってきます。


1603年徳川家康は伏見城で

征夷大将軍の宣下を受けます。

以後、三代徳川家光まで伏見

城で将軍宣下を受けています。

1605年3月に徳川家康は、

伏見城で朝鮮使節と会見して、

朝鮮と和議を成立させます。

1605年御殿建設に伴い、

徳川家康も本丸から西の丸

に移り、更に二条城に移るが、

本丸部分が完成した、8月に

は伏見城に帰城します。新し

くなった御殿で徳川秀忠の

将軍宣下がありました。

1606年頃には伏見城の

器材や屋敷が駿府城へ運

ばれました。家康が駿府城

へ移った後は、松平定勝が

城代となり、また大番等に

よる在番や定番が行われ

ました。
二条城が将軍参内時の

宿舎、伏見城が居館用と

して利用されていましたが、

1619年に伏見城の廃城

が決まり、翌年から城割り

が始まります。

1623年7月徳川家光の

将軍宣下が伏見城であり

ました。「先年破壊残りの

殿閣にいささか修飾して

御座となす」(『徳川実紀』)

とあり、本丸部分に若干

の修復をし将軍宣下が行

われました。

 

徳川家光肖像画です。

 

その後廃城となります。

伏見城の天守は二条城に、

建物は福山城・淀城に移さ

れ、 御香宮神社には大手

門が移築されました。唐門

は西本願寺に移築されま

した。

 

移築された伏見城大手門です。

 

国宝西本願寺唐門です。

 

今回はここまでで、明日に続きます。

 

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