人吉城(日本100名城) 4 はねだし石垣から御下門跡まで | みどりの木のブログ

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昨日の続きです。

今回ははねだし石垣から御下門跡までです。

 

下図の③から上方向です。

はねだし石垣と言います。この石垣の

上は藩主御殿でした。はねだし石垣の

以前は多門櫓がありました。

 

左が北です。

 

赤い矢印に沿って歩きました。

上図Ⓐに近づいてみると(下が北)

 

はねだし石垣(武者返しとも言う)です。

幕末文久2年の寅助火事で、城も延焼

したため、御舘(藩主御殿)の防火の

ために、石垣上部に西洋式のはねだし

を設置しました。江戸湾台場や函館の

五稜郭にも採用されています。

はね出た石を割って石落としても利用

出来ました。

古典的な城郭に採用されたのは人吉

城が唯一の例です。

 

この石垣の左側は水の手門がありま

した。

 

水の手門跡です。

塀は復元されています。

石垣の向こう側に球磨川が見えます。

江戸時代の1607~1639年まで川

沿いに石垣が造られ、その時石垣の

7か所に船着き場も造られました。

その最大のものがここの「水の手門」

です。球磨川の水運を利用して年貢

米の出し入れに使われました。

 

城外の水の手橋から見た水の手門跡

です。

 

水の手門復元模型です。

実際には川に出た部分は傾斜を

付けた石張りで、水位の増減に

対応していました。

 

水の手門の解説板です。

 

絵図を拡大した水の手門です。

 

水の手門跡解説板です。

石垣の上にある土塀はこの門までで、

ここから上流(右側)は1661年に竹を

植えています。

 

間蔵・欠米蔵・大村米御蔵は年貢米を

貯蔵した倉庫です。

 

 

間蔵跡です。

 

欠米蔵・大村米御蔵跡です。

 

平成19年に復元された堀合門です。

藩主御舘の北側門です。

幕末の寅助火事にも焼け残り、明治

4年の競売で、城下土手町に住む、

新宮家に移築されました。

 

下が北の絵図です。

 

ここで記念撮影しました。

右上が欠米蔵・大村米御蔵跡です。

 

さらに歩くと

 

犬童球渓の記念石碑です。

 

解説板です。

犬童球渓は作詞・作曲家で「旅愁」

「故郷の廃屋」などで有名です。

本名は「犬童信蔵」といいますが、

球磨川の渓谷に生まれたことから

「球渓」というペンネームをつけた

そうです。

 

旅愁
「更け行く秋の夜(よ) 旅の空の
わびしき思いに 一人悩む
こいしや故郷(ふるさと) 懐かし父母(ちちはは)
夢路にたどるは 故郷(さと)の家路
更け行く秋の夜 旅の空の
わびしき思いに 一人悩む

窓うつ嵐に 夢も破れ
遥(はる)けき彼方に こころ迷う
こいしや故郷 懐かし父母
思いに浮かぶは 杜(もり)の梢(こずえ)
窓うつ嵐に 夢も破れ
遥けき彼方に こころ迷う 」

 

球磨川が見えています。

さらに歩くと

 

本丸・二の丸に登城するときの

御下門です。

渡櫓のある門でした。

 

 

今回はここまでで、明日に続きます。

 

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