人吉城(日本100名城) 3 西外曲輪2 | みどりの木のブログ

みどりの木のブログ

毎日UPでブログ

昨日の続きです。

今回は西外曲輪の続きです。

 

下図①の辺りから見た多門櫓です。

 

グーグル地図で西外曲輪部分です。

(左が北)

 

①から②方向です。

この辺りが1640年の「お下の乱」で

焼き討ち討伐されるまで、家老相良

清兵衛とその息子のお下屋敷があ

った所です。

「お下の乱」とは2代藩主相良頼寛が、

1640年に重臣で2万2千石のうち、

8千石ほども持っていた相良清兵衛

頼兄の専横を、幕府に対し訴えて裁

可を仰いだ結果。頼兄は江戸へ召

還され小田原藩仮預かりとなります。

江戸屋敷より国許への使者として、

神瀬外記・深水惣左衛門が遣わさ

れます。

使いの内容は、頼兄の養子(義子)

だった田代半兵衛頼昌を引き続き

藩士として取り立てるというもので

した。しかし、田代半兵衛は既に

頼兄の処分を知っていたために、

「お下屋敷」と呼ばれる頼兄の屋

敷に2人を呼び、外記と惣左衛門

は半兵衛に襲われます。惣左衛

門は無事に逃げますが、外記は

捕えられて、全ての指を切られた

上に殺害されました。そして頼兄

の一族はお下屋敷に立て籠もり、

藩兵がこれを取り囲み戦闘とな

なります。結局は頼兄の一族全

員が討ち死に又は自害により、

121名が死亡しました。これが

「お下の乱」と呼ばれる悲惨な

事件でした。

人間という者は権力を持つと

傲慢になり、人の意見を聞か

ないことで破滅に繋がるのは、

織田信長の例もあります。

 

左が北の江戸時代の想像地図です。

⑨⑩⑪辺りが家老相良清兵衛屋敷跡

です。「お下の乱」以降の地図なので、

⑨は大台所・⑩は漆蔵・現在地は武家

屋敷になっています。

⑪辺りには軍役蔵・普請小屋・買い物

所がありました。

 

現在の姿です。(上が北)

中世の城の辺りは住宅地になって

います。空堀が残っていますが、こ

れは後日紹介します。

 

②の辺りは「お下の乱」以後は大台所

と厩になっていました。

 

②の辺りの発掘写真です。

 

発掘解説板です。

 

次に④の辺りが藩主御殿の正門です。

 

④の藩主御殿正門付近です。

(グーグルストリートビューより)

 

藩主御殿の石垣です。

江戸時代は石垣の上に塀がありました。

下図石垣の矢印があるところです。

 

 

今回はここまでで、明日に続きます。

 

読者募集中ですので、読者登録はここのリンクです。

希望があれば、読者相互登録します。

毎日午後8時半頃に更新しています。
「相手わかるように」に設定して読者登録してください。
読者のブログ村・ブログランキングは出来るだけ押しに行きます。

 

Ctrlキーを押したままで、ポチしたら画面が飛ばされません。
 お手数ですが、よろしく。下矢印ダウンぽちっと下矢印ダウン押すだけ
                                              にほんブログ村 歴史ブログへ

 

                                               ブログランキング・にほんブログ村へ

 

                                               にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ

 

                                               にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ

                                               
                  お願いします。