昨日の続きで最終回です。
今回は二の丸と堂の尾曲輪です。
⑫の井戸曲輪に戻ったところです。
ここから左に行くと、⑰の二の丸です。
⑰の二の丸です。
木を切ってないのが残念です。
少し高いので上に上ると
二の丸です。
二の丸横の袖曲輪跡です。
二の丸袖曲輪跡です。
ここより少し下がった所に
二の丸袖曲輪から下りてきたところです。
本間八郎三郎氏清と丸尾修理亮義清
戦死の址と書いてあります。
1574年に、武田勝頼軍が攻めてきたとき、
徳川方二の丸大将兄の本間八郎三郎氏清
は部下300騎を率いて堂の尾曲輪の物見
櫓に登って城兵を指揮していたが、朝日の
光で鎧兜が輝いていたのを目印にされて、
武田方穴山梅雪の部下・西島七郎衛門に
銃撃されて戦死します。その後を引き継い
だ弟の丸尾修理亮義清も、櫓で指揮を執
っていたとき銃撃され戦死しました。
この墓碑は末裔の本間惣兵衛が1737年
に建てたものです。
この後城は開城されて落ちます。父信玄も
落せなかった高天神城を落としたと、勝頼
は舞い上がったと思います。しかし、次の
年の1575年に長篠で敗北します。
霊を祀る社です。
これも天正2年(1574年)の戦いで戦死した
武将の石碑です。
ここが下図⑱の堂の尾曲輪になります。
上図⑱の上にある堀切です。
巾約9m、深さ約6mあります。
掘底から橋脚の穴が発見され
て、木の橋が架けられていた
ようです。
堀切の左側のこの上に上がると
下図⑱の北側の坦な曲輪になります。
この堀切の向こう側は
谷に落ち込んでいます。この下は搦手門
です。
この反対側は
切割とは先ほどの堀切のことですね。
空堀とは下図⑱の左側にある長い横堀です。
⑱の左側の横堀です。
こちら側の斜面はなだらかなので、
防備強化のために、武田勝頼によ
り掘られた空堀です。堀というより
火縄銃を撃つための塹壕と考えた
いですね。
同上
この反対側は
二の丸下にある空堀の横堀です。
同上
横堀から撮影しました。
左上に堀切が見えます。
お堂は先ほどのもので
このお堂の裏側です。
袖曲輪を通り、井戸曲輪に戻ります。
ピンクの線に沿って、来た道を戻ります。
井戸曲輪が見えてきました。
ここに住民の願いで稲荷社もあります。
右端がかな井戸です。
これで高天神城の紹介は終わりです。
明日からは勝頼の造った新府城紹介です。
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