昨日の続きです。
今回は井戸曲輪から馬場平です。
井戸曲輪から高天神社への階段です。
この階段の途中に西の丸があります。
現在地にある案内板です。
階段途中にある⑬西の丸です。
西の丸は岡部丹波守真幸が守備していた時
には、丹波曲輪とも呼ばれました。
ここには社務所があります。
高所で不便なためか平時は
神主さんが不在のようです。
左側の堀切は
堀切です。
西の丸にある手水舎です。
西の丸からさらに石段を上がると
⑭の高天神社があります。
高天神社は高天神城の守護を担う神社とし
て本丸に創建されました。
武田氏滅亡の1年前に落城し、高天神城は
その時、家康により廃城となりました。
江戸時代吉宗の時に社地が本丸からここ
に遷座されています。
高天神山には戦乱の犠牲者を弔う慰霊碑
が建立され、高天神社はそのまま高天神
山に残され、地域の住民の信仰を集める
こととなりました。稲荷社も勧進されていま
す。瓊瓊杵尊が同地に現れたとの伝承を
記念して、毎年3月に例大祭が行われて
います。祭礼期間中、高天神社の祭神は、
通常の社殿から別の社殿に移動します。
例大祭に際しては、出店なども立ち並び
多くの参拝者を集めています。
拝殿です。
左にもう1つの社殿があります。
右奥の方に上がってきた石段が見えます。
回り込んで⑮の方に行きます。
この曲輪は高天神社となっていますが、
もとは西の丸でした。
⑮にある切割(堀切)です。
下りて向こう側に上がると馬場平です。
切割の底にある解説板です。
切割を上がったところです。
堀切の向こう側にある馬場平です。
ここにも休憩所があります。
ここは馬場ではなく番場でした。
見晴らしのいいところです。
馬場の解説板があります。
馬場平から見た西の丸社務所です。
攻め難い崖になっています。
馬場平からの眺め。
馬場平からの眺め。
馬場平の先の方⑯には甚五郎抜け道
があります。
⑯の甚五郎抜け道です。
細い尾根道が続いています。
解説板です。
城周辺は徳川の砦で囲まれていたのに
よく逃げられたものです。後詰を送れな
い武田家は、落城の1年後に滅亡します。
逃げ延びた横田さんは、武田の武将で
鬼美濃と言われた、原美濃守の孫にあた
り、武田家滅亡後は徳川家康に仕えてい
ます。関ケ原の戦いや大坂の陣にも従軍
しています。徳川家では最終的に御旗本
奉行となります。1635年に亡くなりまし
た。
落城直前には幸若舞「高舘」が舞われました。
この続きが
幸若舞は室町時代に流行し、現代の
能や歌舞伎の原型と言われます。
城番(城代)の岡部丹波守長教は、
落城時に手勢とともに林ノ谷の大久
保忠世の部隊に切り込んで討ち死
にしました。
降参して捕らえられた武田兵は、
孕石以外は助命されました。
下が北の絵図です。
今回はここまでで、明日に続きます。
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