高天神城 5 井戸曲輪から馬場平 | みどりの木のブログ

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昨日の続きです。

今回は井戸曲輪から馬場平です。

 

井戸曲輪から高天神社への階段です。

 

この階段の途中に西の丸があります。

 

現在地にある案内板です。

 

階段途中にある⑬西の丸です。

西の丸は岡部丹波守真幸が守備していた時

には、丹波曲輪とも呼ばれました。

ここには社務所があります。

高所で不便なためか平時は

神主さんが不在のようです。

左側の堀切は

 

堀切です。

 

西の丸にある手水舎です。

 

西の丸からさらに石段を上がると

⑭の高天神社があります。

高天神社は高天神城の守護を担う神社とし

て本丸に創建されました。
武田氏滅亡の1年前に落城し、高天神城は

その時、家康により廃城となりました。

江戸時代吉宗の時に社地が本丸からここ

に遷座されています。

高天神山には戦乱の犠牲者を弔う慰霊碑

が建立され、高天神社はそのまま高天神

山に残され、地域の住民の信仰を集める

こととなりました。稲荷社も勧進されていま

す。瓊瓊杵尊が同地に現れたとの伝承を

記念して、毎年3月に例大祭が行われて

います。祭礼期間中、高天神社の祭神は、

通常の社殿から別の社殿に移動します。

例大祭に際しては、出店なども立ち並び

多くの参拝者を集めています。

 

拝殿です。

 

左にもう1つの社殿があります。

 

右奥の方に上がってきた石段が見えます。

回り込んで⑮の方に行きます。

この曲輪は高天神社となっていますが、

もとは西の丸でした。

 

 

 

⑮にある切割(堀切)です。

下りて向こう側に上がると馬場平です。

 

切割の底にある解説板です。

 

切割を上がったところです。

 

堀切の向こう側にある馬場平です。

ここにも休憩所があります。

ここは馬場ではなく番場でした。

見晴らしのいいところです。

 

馬場の解説板があります。

 

 

 

馬場平から見た西の丸社務所です。

攻め難い崖になっています。

 

馬場平からの眺め。

 

馬場平からの眺め。

 

馬場平の先の方⑯には甚五郎抜け道

があります。

 

⑯の甚五郎抜け道です。

細い尾根道が続いています。

 

解説板です。

城周辺は徳川の砦で囲まれていたのに

よく逃げられたものです。後詰を送れな

い武田家は、落城の1年後に滅亡します。

逃げ延びた横田さんは、武田の武将で

鬼美濃と言われた、原美濃守の孫にあた

り、武田家滅亡後は徳川家康に仕えてい

ます。関ケ原の戦いや大坂の陣にも従軍

しています。徳川家では最終的に御旗本

奉行となります。1635年に亡くなりまし

た。

 

落城直前には幸若舞「高舘」が舞われました。

 

 

この続きが

幸若舞は室町時代に流行し、現代の

能や歌舞伎の原型と言われます。

 

城番(城代)の岡部丹波守長教は、

落城時に手勢とともに林ノ谷の大久

保忠世の部隊に切り込んで討ち死

にしました。

降参して捕らえられた武田兵は、

孕石以外は助命されました。

 

下が北の絵図です。

 

今回はここまでで、明日に続きます。

 

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