水城 1 歴史など | みどりの木のブログ

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今回から水城の紹介です。

 

水城は664年に唐・新羅の侵攻に備えて

築かれた、防衛施設です。「日本書紀」に

は「筑紫に大堤を築き、水を貯えしめ、名

けて水城と日う」と記されています。

翌年665年に築かれた、大野城・基肄城

とともに大宰府の防衛施設です。大宰府

の前身は536年に那津に出来た官家と

いう施設でしたが、609年に「筑紫大宰」

の名前が初めて「日本書紀」に記されて

います。大宰府となったのは665年頃

で、周辺に大野城・基肄城そして水城が

築かれたときです。

730年太宰帥の大伴旅人が、自宅で

「梅花の宴」を開き「令和」の書かれた

歌が詠まれました。

 

水城周辺の写真(基山町教育委員会より)

 

全長約1.2km、高さ約9m、基底部の幅

約80mの人工の土塁です。海側(博多湾)

に幅約60m、深さ約4mの水堀を造りまし

た。これが水城です。

 

水城周辺図(水城館より引用)

 

現地にある復元図です。

 

下写真の解説板拡大地図です。

土塁堤の左側(博多湾側)に幅60mの

水堀がありました。

 

上の地図1⃣から見た水城跡です。

逆光で水城跡の石碑が見難いです。

 

東門のこの石碑は、水城地区の人達が

独自に建てた石碑です。

1915年に初めて水城村青年会の手で

建てられました。その後経年劣化したの

で、地元青年会が再建したものです。

 

この東門で、都から来た役人を出迎えたり

見送りました。

 

大伴旅人が730年に帰京するときに、

この門で交わした、旅人と遊行女婦の

児島の和歌です。

 

江戸時代後期の筑紫名所図会です。

大宰府に行くときに通る、東門礎石が

描かれています。当時はこの礎石の

ことを「鬼の硯石」といいました。

 

現在の東門礎石です。

 

横から見た東門礎石です。

 

今回はここまでで、明日に続きます。

 

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