大垣城の紹介4 惣堀・八幡神社・大垣公園 | みどりの木のブログ

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昨日の続きです。

今日は辰之口橋からさらに西に行きます。

 

武者溜橋です。

 

辰之口橋にあった現在の地図です。

 

1645年頃の地図です。

Bの所が武者溜と言われたのか、武者溜橋は

新しい明治以後の橋です。Bは馬出に近いも

のです。

 

花月橋です。

 

八幡大橋です。

 

八幡大橋から北にある、八幡神社を見たところです。

この反対側は

八幡大橋から見た、惣堀だった水門川南方向です。

 

花月橋と八幡大橋は明治時代以降の橋で、江戸

時代には無い橋です。

 

辰之口橋まで戻り、南の方に進んで

常葉神社から大垣公園に行きました。

自然の川であった惣堀以外の堀は、

残念ながら内堀までも、すべて埋め

立てられました。せめて内堀くらいは

復元してほしいですね。

 

古風な感じの旅館がありました。

 

さらに南に行くと

 

常葉神社です。

藩主戸田氏の子孫は代々、この

常葉神社に祭神として祀られて

います。

 

同上


大垣公園城西広場です。公園の中に大垣城本丸があります。

内堀は埋め立てられました。

 

大垣公園です。内堀もなく本丸だけが残っています。

 

本丸前には大垣藩初代藩主の、

戸田氏鉄の騎馬像があります。

 

戸田 氏鉄(とだ うじかね)公騎馬像です。

 

 

戸田 氏鉄肖像画です。

 

彼は徳川家康の近習として仕えて、1600年には

関ヶ原の戦いに従軍します。

1603年に父・一西の死により家督を継ぎ、近江

膳所藩主となります。

大坂の陣では居城の膳所城の守備をしました。

1616年に摂津尼崎5万石へ移封されます。

1635年に美濃大垣10万石へ移封されました。
1637年の島原の乱では、寄せ手の一武将とし

て出陣し、実戦経験の少ない幕府軍の武将とし

て戦いました。
藩政においては新田開発や治水工事などに大

きな成功を収め、大垣藩の藩政を軌道に乗せま

す。また学問でも修養を説いた『八道集』などを

著しています。
1651年に隠居して、仏門に入り常閑と号しま

す。1655年に80歳で大垣にて死去します。

家督は長男の氏信が継ぎました。

 

戸田氏鉄公騎馬像です。

江戸時代は戸田氏10万石の城下町でした。

 

 

本丸にある大垣城の解説板です。

 

 

下の古地図から考えると、二の丸から撮影されています。

塀の前のくぼみは本丸と二の丸の間の内堀でしょうか?

 

1645年頃の大垣城です。

 

現在の大垣公園案内板です。

大垣城二の丸が大垣城ホール

の北側にありました。

 

今日はここまでです。明日に続きます。

 

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