昨日の続きです。
今回は本丸・二之丸です。
本丸です。
右端に門が見えますが、下図のように周囲は内堀
で、こんな門はありません。明治以降のものでしょう。
下の古地図には内堀があり、この門はありません。
1645年頃の大垣城古絵図です。(上が北)
本丸の左側に門はありません。
門は本丸の南側にあります。
本丸の北側には船着き場が
あります。
南側に回ると
下図の現在位置の少し南側から撮影すると、
左端が本丸の塀です。この道は江戸時代は
本丸南側の内堀でした。
大垣公園案内図です。(上が北)
二之丸だった南側です。今は濃飛護国神社になっています。
グーグルより引用の地図です。
北側の本丸方向です。
二之丸から撮影されたと考えられる本丸です。
上図①から北方向です。鉄門跡とあります。
ここは下図の本丸と二の丸を繋ぐ木橋のあ
った所です。
1645年頃の大垣城古絵図です。(上が北)
①の木橋跡から歩いてきた、右方向です。
低くなっています。
①の左方向です。こちらも低くなっています。
もともと本丸と二の丸は、低い二こぶ山だった
ようです。平城ですが、低い山があり内堀を掘
った土でさらに高くしています。
①と②の中間で、本丸鉄門跡の右側です。
金森吉次郎の像です。
この像の右には人口の滝があります。
金森吉次郎は1864年大垣輪中の魚屋町(現岐阜県大垣市魚屋町)に生まれ
ました。
父金四郎は篤志家として外国貿易や製糸業を手がけた大垣屈指の財産家で
す。この資産がやがて、彼の治山治水事業や教育、公共事業などに情熱を傾
ける経済的土台となりました。明治29年の水害の際には大垣輪中堤防委員
長として、一面に浸水した大垣輪中の水防のため最前線で指揮を執り、的確
な決断により災害の拡大を防止しました。県会議員から衆議院議員に進み、
政界から治水対策を推進しましたが、「治水のもとは治山にあり」として、金原
明善とともに、濃尾地震で荒廃した揖斐川の水源を調査し、治山事業を興し
て山地を回復させました。
昭和5年(1930年)10月13日享年67才で生涯を終えましたが、吉次郎
の功績を讃え、嘆願書を携えた吉次郎の銅像が大垣公園に建立されました。
第二次世界大戦時には金属回収のため供出されましたが、昭和29年、元
の台座の上に元の姿のまま再建されました。
NHKの番組に「知恵・・・」という、居酒屋風の店に、成功した人を招いて、歴
史を語るものがありますが、中には社員をこき使い成功しただけの人もいて、
それが偉いのか?と言いたい方も出ています。そのうえ酒の話なので、麻薬
ではないですが、あまり健全なものとはいい難い番組です。アルコール中毒
で家庭や子供を不幸にする方も多いのです。と書きながらも、私は毎回この
番組を見ています。設定を変えてほしいです。
銅像の右側③の辺りに滝があります。
大垣城の別名で麋城(びじょう)の滝
とあります。
下図③の辺りです。
ここから二の丸跡の南に歩きました。
グーグルより引用の地図です。
少し高くなっている、二の丸跡です。
③から撮影した社務所です。
社務所から拝殿に渡る廊下です。
濃飛護国神社の拝殿です。
変わった形の手水場です。
撮影している辺りは内堀跡かもしれません。
今日はここまでです。明日に続きます。
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