昨日の続きです。
今日は山上ノ丸の紹介です。
④から撮影した天守台です。
本丸と⑤の天守台です。1573年に因幡守護職の布勢天神山城の、
3層の天守を移築したとされています。約18m四方の大きさです。
右端の低い石垣は、付櫓跡のものと考えられます。
現地観光案内図です。
現在地①にある縄張図です。
グーグル3Dから引用の写真です。
本丸の解説板です。江戸時代は山上ノ丸奉行がいて管理していました。
天守台に上ると
天守台です。
天守櫓跡の表示があります。
⑤の天守台と本丸
天守台の穴蔵です。
低くなったところは埋もれてますが、深さ約2.4mの穴蔵です。
東方向の石垣は崩壊しています。
雪が残っていました。
天守
『因幡民談記』によると1573年(天正元年)に、山名豊国が因幡守護所を
布勢天神山城から鳥取城に移した際に、布勢天神山城の3層の天守を移築
したとされています。池田長吉が鳥取城主となった際、強風によるゆがみを
避けるために2層に改築しました。
天守台は18m四方のほぼ正方形で、城内で最大の櫓台です。2層天守
の櫓台としては非常に大規模なものであり、現存天守では犬山城天守とほ
ぼ同じ大きさです。天守台の石垣を見ると、北側に向けて築き足した箇所
が明瞭に確認でき、3層天守を2層に改築した際に石垣を拡張したことが、
遺構からも確認できます。
天守台中央部には深さ8尺(約2.4m)の穴蔵がある。本丸平地部分か
ら穴蔵内部へ入るための進入口または石段等の痕跡がないため、この穴蔵
には天守1階から梯子段などを用いて、降りて入っていたものと考えられま
す。古絵図等によれば杮葺または板葺の屋根、下見板張りの外装という
寒気に配慮した造りで、最上階屋根以外に破風のない外観であったと考え
られています。さらに天守南東部に突き出した石塁があり、鳥取城天守は
付櫓が付随していたと考えられます。天守台には天守に入るための石段
の痕跡がないため、付櫓を経由して天守内部に入っていたと考えています。
ただ『鳥府志』や鳥取池田家文書などの諸記録には付櫓のことは記されて
おらず、鳥取城を描いた古絵図にも付櫓が描かれていない。
鳥取城天守は1692年(元禄5年)に落雷で焼失し、以後再建されません
でした。
幕末1860年の古絵図です。山上ノ丸が描かれています。
下図⑥の所です。
右にカメラを回すと
さらに右側は
出丸跡です。
天守台からの眺めは
海が見えます。
天守台のところで写真を撮影しました。
秀吉が陣を構えた東方向ですが、木々で見えません。
手前は天守台の石垣です。崩落しています。
もらったパンフレットからの引用です。
地図③にある本丸の車井戸です。
車井戸の解説板です。
そして、下山しました。
本丸から二の丸跡に下りる石段です。
休憩所のある所が二の丸跡です。
山上ノ丸二の丸跡とあります。
さらに石段を下りると
①の現在地が見えます。先に続く道は東坂道です。
今日は此処までです。明日に続きます。
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