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都が平城京に映ると、飛鳥寺(法興寺)も

平城京に移築されました。それが元興寺です。

 

国宝の元興寺本堂の極楽坊です。

 

本堂の解説板です。浄土を研究した智光法師の住房でした。

外観は1244年の改修時の姿ですが、内陣に奈良時代の身舎

部を残し、瓦も一部は飛鳥寺の瓦です。

 

歴史

平城遷都と元興寺の移建
 元明天皇の和銅3年(710年)、奈良に都が移されると、

この寺も養老2年(718)に平城京に移築されて、寺名を

飛鳥寺(法興寺)から元興寺に改めました。その際、飛鳥

の地名からとった飛鳥寺の名はそのまま継承され、かえ

って新しく移った元興寺の寺地が平城(なら)の飛鳥と呼ば

れることとなりました。


創建時の元興寺の伽藍配置図です。赤い枠内が現在の元興寺です。

赤く塗りつぶした部分が、現在まで残った建物部分です。

現在の地図で比べると

現地の観光案内図です。ピンクの枠内が創建時の元興寺です。

さらに上の方まであります。奈良町の大部分が寺地でした。

 

有名な女流万葉歌人大伴(おおともの)坂上(さかのえの)

郎女(いらつめ)は、奈良の元興寺の里を詠んだ次の歌を

万葉集に残しています。
 古郷之(ふるさとの)
  飛鳥者雖有(あすかはあれど)
  青丹吉(あおによし)
  平城之明日香乎(ならのあすかを)
  身楽思好裳(みらくしよしも)


 大伴坂上郎女がこの歌を詠んだのは、天平5年(733)の

こととされていますが、そのころには移建がほぼ終わってい

ました。もともと蘇我氏の氏寺として建てられ、蘇我入鹿が

誅戮されることもあって、高市の旧飛鳥の地へ置き去られよ

うとさえしたこの寺が、8年も遅れて奈良の地へ移建される

こととなった理由、その財源などの問題はよく分かりません。

奈良の元興寺
元興寺の僧侶たちは依然として諸大寺の学問をリードして、

奈良の新京における指導権を握ったようです。
 当時の伽藍を偲ぶものとしては、東大塔跡(史跡指定)・

西小塔院跡(史跡指定)・極楽堂(国宝)・禅室(国宝)しか

遺こっていませんが、収蔵庫に安置する五重小塔(国宝)

は当時の西小塔堂の本尊、西塔そのものとされ、今に遺

る奈良時代最盛期の唯一の五重塔として有名です。



五重塔(国宝)の模型です。(もらったパンフレットより引用)
 

天平勝宝元年(749)には諸寺の持つ墾田の地限が

定められ、諸大寺の新しい格付けが行われますが、

その時、東大寺の4千町歩に対し、元興寺は2千町歩

大安・薬師・興福の諸寺1千町歩、法隆寺・四天王寺

は5百町歩と定められました。


大仏開眼と元興寺
 天平勝宝4年(752)、東大寺の大仏が完成し、その

開眼法要が営まれた時は、元興寺の隆尊が講師とな

ってその宝前に華厳経を講じたのですが、その時元興

寺の三僧が献歌を行いました。次の歌はその中の1首

です。
    美那毛度乃(みなもとの)
    乃利乃於古利之(のりのおこりし)
    度布夜度利(とぶやとり)
    阿須加乃天良乃(あすかのてらの)
    宇太々天万都留(うたたてまつる)
   (東大寺要録)

  平安時代の後半になると官寺の支えであった中央

政府の権力が衰えて、荘園、寺領からの収入が困難

になり、天台、真言系の新しい寺院の興隆があります。

古い宗派では浄土的な面も薄く、ご利益の無いものと

して、他の官寺と同様衰退の道を辿ることになります。


極楽坊の成立
 その崩壊の過程でひとり元興寺の命脈を支えること

になったのが、智光の残した智光曼荼羅でした。

藤原時代の後期になって法隆寺の僧坊の一部が改造

されて聖徳太子を祭る聖霊院がつくられたころ、この寺

でも僧坊の一部が改造されて智光曼荼羅を祀る極楽坊

成立しました。

 

外から撮影しました。極楽坊本堂内の智光曼荼羅です。

天平時代に描かれたそうです。

 

末法思想から極楽に行きたいと願う人々の浄土信仰

の波に乗って、この一画が極楽坊と呼ばれるようになり、

僧坊の一部を改造した極楽坊は極楽堂とも曼荼羅堂と

も呼ばれて、南都系浄土信仰の中心となっていきます。

このためにここに供養塔・墓を建てる人が沢山いました。

 


沢山の石仏と背後は国宝の禅室(僧坊)です。

 

現地にあった元興寺の伽藍配置です。

 

本堂の極楽堂の屋根瓦です。飛鳥寺の瓦を数千枚

この本堂と禅室で今も使用しています。丸瓦の葺き

方が行基葺と言われます。灯ろうの鹿の浮彫が奈良

らしいです。


庶民に支えられた元興寺
 その頃になると、この寺を支えるものは政府でもなくて、

むしろ無名の、庶民と呼ばれる階層の人たちが中心とな

ったようです。鎌倉期以降の中世を通じてこの寺は智光

曼荼羅を中心とする、浄土信仰のほかに地蔵信仰、聖徳

太子信仰、弘法大師の真言信仰などが入り交じった混然

とした状態で群衆を集め、かろうじて近世にその伽藍と

伝統を伝えることとなります。今に遺る聖徳太子孝養像

(重要文化財)や弘法大師坐像(重要文化財)は藤原時

代初期に作られた半丈六阿弥陀如来坐像(重要文化財)

などとともに当時の信仰の様態をよく物語るものといえま

す。また、東門(重要文化財)が東大寺西南院から移さ

れてくるのも、中世末期になります。

 

東門です。左側に受付があります。西日に照らされて極楽浄土を想像できます。

中世末期に東大寺から移築されました。

 

 江戸時代に入ると

 幕府から100石の朱印地を与えられ、49世長老賢瑜

栄順上人、51世長老尊信春識上人、53世長老尊覚春

賢上人、57世尊静真覚上人、59世長老尊員真乗上人

などが輩出します。この法流は明治五年の尊誓和尚で

神仏分離令が出て終わります。100石もらったために、

庶民との繫がりが切れていました。
 明治期は無住で、西大寺住職兼務預寺となり、堂舎は

小学校(市立飛鳥小学校前身研精舎)や私立女学校(浄

土真宗東本願寺経営の裁縫学校)などに使用されました。
 昭和18年に、生駒山宝山寺より辻村泰圓和尚が特任

住職として入寺し、同24年から堂宇の解体修理が再開、

旧庫裡を極楽院保育所として移転改築して、同30年に

寺務所が新築され定住することになります。
境内地も昭和40年に国史跡に指定された。寺院名称は

昭和30年に南都極楽院から元興寺極楽坊に、昭和52

年には元興寺に変更されました。

                          (元興寺のWebページより引用しています)

 

今日はここまでです。中編で伽藍紹介を明日UPします。

 

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