野々上八幡神社の紹介と野中寺城 | みどりの木のブログ

みどりの木のブログ

毎日UPでブログ

昨日の続きです。

最近、ブログ休止とか退会が多いので、読者数が増えま

せん、出来たら退会せずに休止でお願いします。そのま

までも無料ですので、また元気が出たら戻れますので、

よろしくお願いします。

今日は野中寺の隣にある野々上(ののうえ)八幡神社の

紹介です。

 

野中寺の塔跡から、奥の方に野々上八幡神社

参道の玉垣が見えます。

 

野々上八幡神社正面の鳥居です。

 

グーグルより引用の地図です。野中寺に隣接して高台に

なった所が、野々上八幡神社の拝殿と本殿です。

 

鳥居の右側に神社の由来石碑があります。

神社由来石碑です。

読み難いので石碑文章を、以下に書き出しました。

御祭神 八幡大菩薩
当神社は奈良朝か平安初期(約1207年前)にかけて、

野中寺とは宮寺形式となっていた。
永和元年(約614年前)南北朝の争乱で社殿附近が、

野中寺城としての戦場となったためお寺と共に焼失す

る。
その後江戸寛文年間(約328年前)に至って覚英律師

や恵猛律師による野中寺復興の折お寺の鎮守、八幡宮

として再建される。
祭神は八幡大菩薩さまであった。
明治初年(約120年前)の神仏分離令により野中寺と

別れ、独立して村社となりその後北宮大津神社に合祀

され昭和二十三年当山に復帰される。
昭和五十九年町有財産により、社殿平和の社が新築

され社域が整備された。
現在設置されている燈籠は、宝暦五年(約235年前)

階段附近の敷石等は安政六年(約130年前)、又狛犬

さんは文化八年(約187年前)個人の奉納又、氏子若

中により設置されたものである。

     昭和六十三年十月吉日 建之


とあります。明治の神仏分離令により野中寺と別れ、

北宮大津神社に合祀されますが、終戦後昭和23年に

当山に復帰しています。野中寺や地元の村の再建へ

の思いがあったのでしょう。

 

約30年前に社殿平和の社が新築されました。

社殿平和の社です。

 

野々上村が灌漑用で所有の、ため池である上印池を

売却して、約30年前に住民の願望だった野々上八幡

神社の本殿・拝殿の改築と、平和の社の新築をしたそ

うです。

 

拝殿への階段は、

階段付近の敷石は、江戸時代末期の安政6年の建造です。

 

階段を上ると

狛犬と拝殿です。

狛犬は江戸時代の文化八年(今より約200年前)に個人

が奉納して、氏子が設置したものです。明治に合祀されて

からも残っていたのです。

拝殿前に行きお参りしました。

 

拝殿の隙間から見た本殿です。

 

拝殿の横から見た本殿です。

 

本殿・拝殿の周囲は崖になっています。神社由来石碑に、

約614年前南北朝の争乱で社殿附近が、野中寺城として

の戦場となりお寺と共に焼失したとあります。周辺の地形

からみて、野中寺城の本丸はこの神社の本殿・拝殿の辺

りと考えられます。詳しい縄張図が無いのですが、記録と

して残るのは、建武4年(1337年)3月、丹下三郎入道

西念の大軍は、古市(羽曳野市)に陣を張っていた南朝

軍を攻めました。しかし、野中寺(羽曳野市野々上)前で

合戦となり、南朝軍の岸和田治氏により、丹下氏は丹下

城に追い立てられ、付近の民家も焼き払われました。古

来は、現在の羽曳野市恵我之荘から高鷲、市境を越え

て松原市西大塚付近までが丹下郷とされましたので、 こ

の野中寺城は北朝方の砦であったようです。

 

もう一度周辺地図です。

グーグルより引用の地図です。

 

今日はここまでです。明日は四条畷神社の紹介です。

 

読者募集中ですので、読者登録お願いします。

希望があれば、相互登録します。相互アメンバーも募集中です。

どちらもチェックを外して「読者とわかるように」に設定して登録してください。

見てくれた人にはブログ村・ブログランキングを出来るだけ押しに行きます。

Ctrlキーを押したままで、ポチしたら画面が飛ばされません。

 

お手数ですが、お願いです。下矢印ダウンぽちっと下矢印ダウン押すだけ

                          ブログランキング・にほんブログ村へ                            

              にほんブログ村 歴史ブログへ

              にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ

              にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ

 

 ブログボタン押しよろしく→お願いします。