昨日の続きです。
今日は野中寺の方丈からです。
お染・久松の墓からもどり、方丈の方に行きました。
右に少し見えているのが本堂です。正面奥に方丈・事務所の門が見えます。
この左側には地蔵堂があります。
グーグルより引用の地図です。
地蔵堂です。この左側には、
以前は朝鮮人風の石像がありました。
左下に石人の写真があります。伝承では聖徳太子建立48寺院の一つ
とされ、太子の命を受けた蘇我馬子が開基とされます。しかし、実
質的に野中寺を開創した人が、船氏という百済系渡来人であったことか
ら、この像があったと考えられます。この寺院の南大門が当時の国道1号
線ともいえる、竹内街道に面していましたので、聖徳太子の思いから「日
いずる国」の立派さを、竹内街道を通り飛鳥に向かう、中国人達に見せた
かったのではと考えられます。なので、船氏一族の財力を利用してこの寺
を開創したのでしょう。野中寺の東方に広がる野々上遺跡では、大型の
建物群の跡が発見され、野中寺の造営や維持管理に携わった有力氏族
が居住していたところと推定されています。さらに同遺跡内には、当時の
野中寺に使用されていた屋根瓦を焼いたとみられる下田池瓦窯跡(しも
だいけかわらがまあと)も検出されています。 百済渡来氏族として船氏は、
廃仏派の物部氏と対立した、蘇我氏と聖徳太子を応援していたのでしょう。
羽曳野市教育委員会から引用しました。左端に百済系渡来人像です。
地蔵菩薩像(国重要文化財:羽曳野市教育委員会から引用)
方丈・寺務所の門に行きました。
中之太子野中寺方丈・事務所の入口門です。
聖徳太子の墓所がある叡福寺が「上之太子」で、野中寺が「中之太子」そして、
「下之太子」大聖勝軍寺とともに三太子の一つと呼ばれています。
入って左に曲がった所です。
進むと
正面が寺務所で左が方丈です。
寺務所の受付にあった盆栽です。
方丈です。りっぱな式台があります。
実はこの建造物は、大和郡山藩柳沢氏別邸を移築したものです。
内部の見学は毎月18日のみなので見学できませんでした。
ここで梅の花を撮影しました。
長くなるので今日はここまでです。明日は隣にある野々上八幡神社の紹介です。
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