観心寺の子院槙本院の紹介1 | みどりの木のブログ

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今日観心寺に「ぐるっとまちじゅう博物館」で、文化財公開と26日

・27日に文化財ライトアップ・ライトショーがありましたので、見物

してきました。

また、文化財公開ということで、『観心寺縁起』(国重要文化財)や、

昭和天皇即位のときの饗宴会場だった恩賜講堂公開もあり、後

に紹介します。

今日は観心寺の子院である槙本院の紹介です。

 

 観心寺は文武天皇の大宝元年(701年)、役小角(役行者)によって開かれ、

その時は雲心寺とよばれていました。 その後、平安時代の初め大同三年

(808年)に弘法大師空海が当寺を訪ねられた時、境内に北斗七星を勧請

され、弘仁六年(815年) 衆生の除厄のために本尊如意輪観音菩薩を刻ま

れて寺号を観心寺と改称しました。「空海が自ら刻んで」という確証は無い

のですが、現在金堂本尊として安置される如意輪観音像(国宝)は、様式か

ら見ると800年代の作品とされています。

 

国宝の如意輪観音像です。(槙本院の絵画より引用)


 弘法大師は当寺を道興大師実恵( 俗姓は佐伯氏で讃岐国出身

の空海一族です。檜尾僧都・道興大師とも称され、初代京都東寺

長者になる)に附属され、実恵は淳和天皇から伽藍建立を拝命し、

彼の弟子真紹(空海の甥で後に東寺の長者)とともに、天長四年

(827年)より 造営の工事に着手します。承和3年(836年)には

石川郡東坂荘が勅によって寺領になります。以後、当時は国家

安泰と厄除の祈願寺として、また高野山と奈良・京都の中宿とし

て発展します。

高野山→観心寺→飛鳥川原寺→奈良東大寺→京都東寺

という経路で、4日の行程でした。お寺の宿坊を利用したら、宿代

の経費がかからず便利でした。紹介の槙本院も宿坊的な利用が

されたようです 。

中世になると、楠木正成が後醍醐天皇から厚く信任され、建武の

新政後(1334年頃)、楠木正成を奉行として金堂外陣造営の勅を

出され、 現在の国宝金堂ができました。

 

国宝の金堂です。

 

正成自身も報恩のため三重塔建立を誓願しますが、延元元年

(1336年)に神戸の湊川で討死します。正成の首級が 当寺に

送り届けられ、首塚として祀られています。この中世の時代に

は寺領が約1500Haもありました。

 その後、当寺は足利、織田、徳川(大坂方に味方したとして、

寺領のほとんどを召し上げられた)にそれぞれ圧迫を受けて、

最盛期五十余坊あった子院も、現在わずか二坊になってます。

江戸時代の寺領は50石だけだったそうです。

子院は槙本院と中院の二坊ですが、現在両方ともに無住なの

で、本坊で管理しています。

 境内は 史跡として、、山岳寺院の景観を保持しています。

 

観心寺全体古絵図です。今年公開されたようなので初めて見ました。

江戸時代後期に描かれたそうです。

 

槙本院辺りを拡大しました。

観心寺の古絵図です。

 

現在の観心寺絵図です。

 

槙本院辺りを拡大すると

現在の地図と発掘調査跡が緑線です。

 

江戸時代後期の古絵図を拡大したものです。

 

槙本院の表門です。

 

表門です。

 

魚眼レンズで撮影した表門です。

 

表門をくぐると

左が中門で、右が庫裏です。

 

魚眼レンズで撮影したものです。

 

槙本院の解説板です。

 

今日は庫裏の紹介です。

 

庫裡の修復が行われました。

庫裡の解説板です。真言宗や天台宗では、はじめ庫裡を台所

と言っていましたが、庫裡の呼び方は一般化しています。なの

で、真言宗の槙本院でも庫裡と言っています。

 

 


現在の庫裏

 

庫裡の玄関です。

 

庫裡の台所です。

 

 

おしゃべりインコのピーポちゃん

の動画お借りしました。(22秒)連続再生しますので適当に見終わってください。

今日はライトショーで帰宅が遅れたので、ここまでにします。短くてすいません。

明日は槙本院の書院から解説します。

 

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