飛鳥の川原寺紹介 | みどりの木のブログ

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昨日の続きです。今回で飛鳥紹介は終わりです。

橘寺から北側にある川原寺に行きました。

川原寺跡は南大門、中門、廻廊などの旧位置が

わかるように整備されています。中金堂跡付近に

建つ弘福寺は、江戸時代中期に創建の真言宗の

寺院です。

手前の礎石が南門跡で、その向こう側に中門跡と廻廊跡があります。

その向こう側には右に五重塔跡と、左に西金堂跡があります。その奥

には中金堂跡があります。中金堂跡には弘福寺(ぐふくじ)が建てられ

ています。

 

左下に川原寺があります。規模は飛鳥寺とほぼ同等です。

 

現地の説明板です。

飛鳥寺(法興寺)、薬師寺、大官大寺(大安寺)と並び、

飛鳥の四大寺の一に数えられた大寺院ですが、中世

以降衰微します。川原寺跡は国の史跡に指定されて

いて、現在はかつての中金堂跡に、川原寺の法灯を

継ぐと言われる、真言宗豊山派の弘福寺があります。

『諸寺縁起集』には敏達天皇13年(584年)創建説を載

せていますが、川原寺跡からの出土遺物(瓦など)の

年代から、もう少し遅い時期かもしれません。

『日本書紀』の記録から考えて、天武天皇2年(673年)

以前の創建であることは確かなのです。 天智天皇

が、母の斉明天皇の冥福を祈り、川原宮邸を改造して、

川原寺にしたとすれば、元の川原宮邸の創建時期が、

川原寺の創建年代と考えると、創建584年としても余り

矛盾は無いと考えられます。

川原宮邸は、斉明天皇元年(655年)に飛鳥板蓋宮が

焼失し、斉明天皇2年(656年)に、後期岡本宮へ移る

まで、仮宮殿として使用されました。

 

創建時の川原寺伽藍配置です。(みどりの木制作)

講堂の周囲に僧房があるのは、インドのナーランダ寺院に

似た構造です。ナーランダ寺院のリンク先はここです。

現在、中金堂跡には弘福寺(ぐふくじ)が建てられています。

 

中門は東西14m、南北10mで、2階建ての大きな門でした。

五重塔の土壇の大きさは、一辺11.7m高さ1.5mあります。

なお、鎌倉時代の再建時には三重塔に変更されていたこと

も判明しています。

西金堂の土壇の大きさは東西13.6m、南北21.8mでした。

中金堂の基壇規模は、東西23.8mで南北19.2m、高さ約1.5m

です。礎石は他では例を見られない白色大理石で、28個が

現弘福寺境内に現存しています。

 

中金堂跡の大理石製礎石

 

講堂は、1191年の焼失後、削平され、堀を巡らせた邸宅

として利用されたこと、そして基壇規模は、東西40.5m、南北

16mであったことが発掘調査で判明しています。

 

現地にある、川原寺の復元図です。

 

川原寺の復元模型です。(飛鳥資料館にある模型を引用)

一番手前が南門です。

 

川原寺で使われていた瓦は川原寺式軒瓦とよばれ、

近畿地方・琵琶湖東岸・美濃地方・尾張地方の古代

寺院跡で発掘されています。特に、壬申の乱との関

係が深いとされ、大海人皇子(天武天皇)がたどった

道や、戦いが行われた地域とほぼ同じ場所の寺院跡

から発掘されています。これはこの戦いで功績のあっ

た豪族が寺院を建てることを許され、飛鳥の瓦職人が

各地でこの瓦を焼いて用いたと考えられます。 

川原寺式瓦の模様は複弁蓮華文(ふくべんれんげもん)とよばれ、

蓮の花を真上から見たものがデザインの基になっています。中央

に1個,その周りに4個,さらにその周りに9個の蓮子(種子)が描

かれています。蓮が極楽の象徴だったのでデザインされたのでし

ょう。

去年UPした蓮の花です。

宝ちゃん(皇極天皇)の長男の天智天皇が川原宮邸をお寺にしましたが、

天智天皇の弟の天武天皇がこの大きな伽藍を建立したと考えられます。

理由は「日本書紀」に多くの記述があることです。

    天武天皇二年三月の条
        「この月に、書生(写経生)を集めて、川原寺で一切経の書写をお始

    めになった」 
   朱鳥元年四月の条
        「新羅の客人を饗応するために川原寺の伎楽(舞人、楽人、衣裳)を

    筑紫に運んだ」 
   朱鳥元年五月の条
        「五月二四日から天皇は病あつくなられ、ために川原寺で薬師経 

    (薬師如来本願経)を説かせ・・」 
    朱鳥元年六月の条
        「勅して、百官の人々を川原寺に遣わして燃灯供養を行い、盛大な 

    斎会を設けて悔過を行った」 
    朱鳥元年九月の条
        「親王以下諸臣にいたるまでことごとく川原寺に集い、天皇の御病

    平癒のために云々と誓願した」 

これらから少なくとも天武天皇の在位中は、筆頭の官寺であったといえます。

しかし、平城京遷都に際して飛鳥四大寺のうち飛鳥寺、大官大寺、薬師寺

は官寺として移設されたが、川原寺だけがそのまま飛鳥の地に留め置か

れます。橘寺もそうですが、元宮邸ということで官寺扱いでは無いかもです。

 平安時代前期と鎌倉時代初期の建久2年(1191年)の二度にわたって焼失

します。平安時代前期に空海が平安京の東寺と高野山の往路での宿所とし

て川原寺を使用しており、時期は不詳ながら平安時代には東寺の末寺とな

っていました。
    建久2年(1191)の焼失後の同じ鎌倉時代に、中金堂、塔、南門、僧坊が

再建されます。しかしこれも室町時代末にことごとく焼失し、これ以降本格的

な再建はされませんでした。
江戸時代中期に、現在の真言宗弘福寺が再興されます。しかし、現弘福寺

は創建時の川原寺とは異質の寺院です。

 

説明板がありました。

 

東南の位置から見たところです。廻廊と中門跡が手前に見えます。

 

西南の位置から見たところです。

ここには庚申さんがありました。

 

今日はここまでです。

明日はバラの花写真です。

 

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