小型化したピエトロⅠ・グァルネリ型のヴァイオリンが完成 | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

こんにちはガリッポです。

高いアーチの楽器についても予備知識があるほど理解が難しくなります。
私は、特にアーチの高さは意識しなくてもいいと考えています。
そこに興味を持つ必要が無く、単に弾いてみてどう思うかというだけです。
板の厚みについても同じです。

私が言っていることは「なんでも良い」ということです。
これで今回の記事は終わりです。「はい、解散!」


これだけで十分ですが、なぜなんでも良いかという話も多少は必要でしょう。
音が良いものを買いたいとか、変なものを買ってしまわないか不安があると思います。
「〇〇が良い」とか「××はダメ」という情報を欲しているのでしょう。

実際ヴァイオリン職人の間でも、そういう知識が多いですし、そういうことを語る職人も多いです。師匠や製作学校の先生ものそうです。現代の職人の多くは一般の人や、お客さん、弟子や生徒にそうやって語りかける人が多いです。
でも理屈で考えていたのと実際の楽器の音は全くかけ離れていて一つ一つの楽器に向き合うと「なんでも良い」ということを経験するし、そうやってふるいに分けてしまうことがとてももったいないことだと思います。高いアーチの楽器を愛用している教授に「あなたのヴァイオリンは間違っています」と職人は説教するべきでしょうか?演奏を聞くととてもそんなことは言えません。平らなアーチの楽器でも同じことです。厚い楽器の持ち主でも薄い楽器の持ち主でも見事な演奏をする人がいます。私は決めつけを無くすように言っています。

しかし知識としては「なんでも良い」では何も増えていません。
ヴァイオリン工房を訪れて職人に話を聞いたり、学校に通って勉強したのに、何も知識が増えていないのでは甲斐がありません。なんか得をしたと思って帰りたいですね。せっかくなら収穫ゼロよりも満足感が得られる何かを持って帰りたいものです。世の中に迷信やニセ科学などそのようなものがずっと昔からあるのは人間の欲求なんでしょう。

弦楽器の基本的な知識として「オールド」と「モダン」ということがあります。
それすら分かっている人は少ないものです。
オールドと言って単なる中古品を売っているお店もあるでしょう。詐欺じゃないかと言えば、英語の辞書を引いてみてください。新品ではないので商取引の用語としてはオールドで間違っていません。

しかし弦楽器の世界では専門用語してオールドという言葉があります。
ヨーロッパの多くの産地では1850年より前と後で、作風ががらりと変わる時期があり、ある産地の専門書では1850年より前と後で2巻に分けています。
したがって1850年より後のものが「モダン」というものです。

しかしそれ以前をオールドと言えるかといえば、過渡期があります。
同じ年代でも、ベテランの職人は昔の作り方を続けていたかもしれませんし、新しもの好きの職人はそれ以前にも最新の楽器作りの流行をキャッチしていたかもしれません。
ギルドのような組合としてこのままではいかんと勉強をさせられた職人もいたかもしれません。

弦楽器の変化は、科学技術では、エンジニアリングよりは生物の進化に似てるように思います。
コロナウィルスでも感染力の強い変異種が出ると一気に広まって、それ以前のものがほとんどなくなってしまいました。モダン楽器が一気に広まって、オールド楽器が無くなってしまったのです。

モダン楽器は19世紀には進んだ優れたものだと考えられていたからです。我々が学ぶ知識もその頃のものが基本として残っています。それに対して、楽器取引の現場ではオールド楽器の価値が無いということはありません。それが厄介で、過去の劣った技術としてオールド楽器が全く見向きもされないのではなく、むしろそれ以上に貴重なものとして高価な値段で取引がなされているのです。

ここに矛盾する二つの考えがあります。
①オールド楽器は劣ったものである
②オールド楽器は貴重なものである

楽器を作っている職人の世界なら①を教わります。自分たちが作っているものは昔のものよりも優れていると思いたいからです。職人によっては、現代の楽器のほうが音が良いと言い切る人もいるでしょう。私は控えめな性格なので、そうは言いません。しかしそういう態度の人がカリスマを発揮することでしょう。それも厄介ですね。

読者の皆さんがどちらの考えをこれまでの経験で得られているかは人それぞれでしょう。


それはともかく、生物の進化になぞらえたときに、どうやってモダン楽器が生まれて広まっていったかということはとても面白い、古生物学のような研究テーマです。エンジニアリングとして音をどう作るかではなく、歴史の研究として面白いということです。

すでに絶滅してしまった生物では手がかかりは化石しかないということになります。繁栄するのに有利な特質を獲得してそれからは個体数も増え、化石や今でも生きている生物を見ることができるでしょう。しかしまだ少数だったころのものは化石も見つかりにくいものです。そういう進化の途中の化石をミッシングリンクと言うそうです。

オールド楽器とモダン楽器のミッシングリンクは研究テーマとしてはとても面白いと思います。
残念なことは弦楽器の歴史を研究してお金をもらうという職業が無いのです。つまりそういう学問のジャンルが無いのです。職業としての学者も存在できないです。

弦楽器を語るうえでとても重要な事でも学問になっていないのです。
だから知識を学んで分かったつもりになるのは怖いことだし、間違った知識を持っていると楽器選びでは妨げになります。

私はこういうふうに考えると「お前は融通が利かないな」と思うかもしれません。世の中の人たちはあやふやな出どころ不明なよく分からない知識をすでに持っていて、大金をどんどん出してしまうのだから、その流れに逆らわなければお金儲けもできるだろうし、間違いを指摘して機嫌を損ねないほうがコミュニケーションも円滑になるというものです。
たまに帰国したときに、知人の付き添いで新宿の中古カメラ屋に行ったことがあります。
スーツの上にペラペラのコートを着たサラリーマン風の男性が店主に対してやたら偉そうにしていました。店主は心得ていて、ドラマに出てくるバーのマスターのように下手に出てご機嫌をうかがっているようでした。どう考えても店主のほうがカメラに精通し幼稚な素人の考えを見通しているはずです。バーのマスターだって起業家で社長ですから。


どうでも良い話になりましたが、私も本格的に学者として研究することはできません。
それでも専門書を見れば多少は資料があります。
これからも機会があれば研究はしていきます。

オールド楽器とモダン楽器はある時期を境にとって代わられたという事すら多くの人は知らないと思いますし、そんな知識が当ブログ以外で語られることも少ないでしょう。ブログを全部読めというのは酷ですので、最初の方に書いたことを全部読んでいないという前提で書いていきます。


モダン楽器というのがそもそも何かと言えば、
①モダンフィッティングであること
②ストラディバリを理想のヴァイオリンと考えること
③アーチがフラットであること


大雑把にはこんな所です。
①のモダンフィッティングだけなら、オールドヴァイオリンを改造することができます、これは「オールドとモダン」ではなく、「バロックとモダン」という対比になります。モダン楽器はモダンフィッティングで作られました。モダンフィッティングとはネックと指板、バスバー、駒などの違いです。響板そのものはオールドのものを改造してモダン仕様にすることができます。②と③はモダンフィッティングの上にさらに特徴づけられることです。

これは現代でも基礎として生き続いていて、これを正当化する理屈がいろいろ語られてきました。
③を覆して高いアーチの楽器が作られることはめったにありません。もっと厄介なのは②で、ストラディバリというのがあまりにも擦り込まれすぎていて、ストラディバリモデルの影響を受けずに自分独自のヴァイオリンを設計することもできません。身の回りにあるヴァイオリンというものがたいていはモダン楽器の影響を受けたものです。アマチュアが独学で作っても、持っている身近なヴァイオリンがすでにストラディバリ型のモダンヴァイオリン以降のものだからです。ガルネリモデルでも輪郭の形を変えただけで音も変わりません。

ストラディバリの影響を受けていないものは、彼が楽器を作る前の時代のもの、それが各地に伝わる前のものだけということになります。これもオールド楽器が研究対象として面白い要因です。


私は今回はピエトロⅠ・グァルネリ(マントヴァ)のモデルで作りました。彼も、ストラディバリよりも10歳ほど年下で影響を少し受けています。でもまだ少ない方です。それ以前のスタイルが色濃く残っています。

イタリアではストラディバリ以降、何となく作風に流行のようなものがあって、1600年代のアマティ的なものから変わっていきます。ストラディバリもアマティの特徴を緩くしたものと考えることもできます。例えば、ナポリのガリアーノ家の2~3世代目の楽器を見ているとストラディバリっぽい感じが出てきます。しかし、ものよってはアマティの特徴も色濃くあり、ストラディバリの弟子というのは誤情報です。昔は何でもストラディバリの弟子と語って楽器を売ってきました。
なんとなく似ては来るけども、完全にモダン楽器とはなっていません。
不思議なのはベネツィアのマテオ・ゴフリラーもどことなくストラディバリに似てるところがあります。ベネツィアの楽器は形がバラバラなので、シュタイナーに似ているものだけでなくストラディバリに似ているものも出てきてしまいます。そうするとストラディバリの弟子が一人増えますね。

何かにつけイタリアのオールドの作者ではストラディバリの弟子にこじつけてきました。はっきり特徴が分かるのはカルロ・ベルゴンツィくらいです。

1600年代にはアマティ的なヴァイオリンがイタリアでは主流でした。アーチはアマティのものよりもさらに強調されてぷっくりと膨らんだものもありました。それがヨーロッパ各地に伝わり、さらに変化していきました。
シュタイナーもアマティの影響がとても強い作者の一人です。楽器の基本的な構造や形はアマティ家のものと同じで、それ以前にも存在していたものとは違います。アマティ以前の弦楽器についてはよく分かってはいませんが、スイスからドイツのシュバルツヴァルトにかけて「アレマニック派」という流派が残っていました。おそらくそれはアマティ以前の弦楽器製作の生き残りだったのではないかと思います。楽器は現存しており、古生物学の化石のようなものです。

それから比べるとシュタイナーははっきりとアマティの特徴があります。なのでアマティやシュタイナーのようなものが1600年代的なオールド楽器ということになります。

それが各地に伝わっていく過程も面白いものです。
オーストリアやドイツの最南部ではシュタイナーの影響が色濃く出ています。ミッテンバルトのクロッツ家などははっきりとシュタイナーの特徴があります。しかし1700年代になると作風がどんどん変わって行ってシュタイナーそっくりを目指していたわけではないことが分かります。1800年頃になるとクロッツでもストラディバリの影響が随所に入っています。ストラディバリのコピーを作ろうというものではなく、作風が流行のように変化していったのです。

マルクノイキルヒェンでは1600年代にははるかに原始的な安価なものが作られていました。こちらは貴族の宝物というよりも音楽をするための道具という感じがします。デルジェスよりも前にフラットなアーチの四角いモデルのものが作られていました。パフリングが入っておらず、線を描いただけのものもありました。アーチが平らなのも安価なものを作るためのものだったのかもしれません。また、アマティやシュタイナー以降の高いアーチのスタイルが伝わる前の技術で楽器を作っていて、原始的な楽器の特徴を残していたのかもしれません。つまり、アマティの影響を受ける前にすでに平らなアーチの楽器があって、アマティの影響が伝わると高いアーチの楽器が作られるようになっていったということです。

このように皆がシュタイナーそっくりに完ぺきなものを作ろうとしていたわけではなく、ドイツの職人たちは当時知りうる知識で個性的な楽器を作っていました。イタリアの職人と同じように一人一人個性的でした。「シュタイナー型」とひとまとめにするのは商業的に注目度が低いからです。

アマティの弟子やその弟子によって1600年代にイタリアで高いアーチの楽器が作られるとその影響が各地に伝わっていきました。伝言ゲームのように伝わる過程でさらに大げさになって行ったとしてもおかしくありません。ストラディバリの最も若い頃のものも、アマティよりもさらに高いアーチになっています。アーチを作る時測定器具を使わず、目の感覚だけでやると意外と今アーチがどれくらいの高さなのかよくわからなくなってしまいます。さらにいつも見慣れているとそれが普通に見えてきます。自分は普通のものを作っているつもりでも、他者から見れば高いアーチになっているかもしれません。

イギリスではドイツとのつながりがあり、シュタイナー的なものが作られていました、ミッテンバルトの楽器を購入していたというのも言われています。オランダではアマティをお手本としたものが作られました。


一つ一つのミッシングリンクを研究していくのはとても面白いです。
しかしティラノサウルスと違って、一般の人々の関心は低いでしょう。公的に研究する職業がありません。


ヴァイオリンの歴史で、アマティに次ぐ、大きな変化というのはフランスのパリで起きます。
フランスでも1500年代から弦楽器は作られていたようです。古くはナンシーという所でアルプスやミルクールに近い方です。1700年頃にはパリでアマティ型のものが作られていました。こういうのも不思議で常識的な知識としては、かつてはシュタイナーが王侯貴族の間で大人気で最も高価な楽器だったものが、ストラディバリにその座を交代したとなっています。フランスの職人もシュタイナー型のものを作っていたところ、パリにストラディバリのヴァイオリンがやってきて、一夜にして作風を変えたという物語があります。でも実際に楽器を調べてみるとアマティ型のものを作っていたようです。知識というよりもまるで神話ですね。

パリでも1750年頃には、アマティの影響が少なくなり、ストラディバリ的になってきます。イタリアの職人も同じではっきりストラディバリそっくりのものを作ろうというのではなく、何となくストラディバリに似てくるという感じで、もっと言うとアマティの特徴が失われて行ったという感じでもあります。アマティを一つ一つの工程で最後まできっちり作らないで切り上げるとストラディバリっぽくなるというわけです。

アマティとストラディバリは一世代しか変わりませんから、その差もわずかです。フランスでもアマティ型のものを作っていたのでストラディバリ型に移行するのは比較的容易だったはずです。それがアマティ、シュタイナーを経て独自の個性あふれる楽器に進化しいてたドイツでは差が大きくなります。ドイツではガブリエル・ダビッド・ブッフシュテッターがストラディバリの1690年代のものを真似た楽器を1700年代の中ごろには製造をしています。その後ウィーンではフランツ・ガイゼンホフがストラディバリのコピーを作っています。それらはそれまでの南ドイツの楽器とは全く姿が違う画期的なものでした。しかし種として生き残り繁栄したのはパリのストラディバリコピーです。

パリでは同じ時に複数の職人がストラディバリのコピーに取り組んでいただろうと思われます。その中で名前があるのが、ジョセフ・バソとフランソワ・ルイ・ピケです。ピケなどは歴史では出てくる名前ですが、楽器はかなりレアじゃないかと思います。バソは若い頃と晩年で作風が変わります。まさにミッシングリンクです。1790年頃にはストラディバリになんとなく似ているというレベルを超えて、「ストラディバリのコピー」というものが出来上がっているようです。

ストラディバリの大型のモデルにフラットなアーチ、赤いニスなどその後のフランスの楽器の基本形ができます。実際のストラディバリはそこまでフラットなものはめったにないでしょう。当時の人にはストラディバリがそう見えたのだと思います。ストラディバリやデルジェスのアーチの高さは晩年までバラバラで定まっていませんでした。それも木材の硬さによってアーチの高さを変えたとストラディバリは何もかも計算尽くだったと考えるような人もいます。それだとストラディバリを神様とするには都合が良すぎる感じがします。私は製品を統一しようという概念が無かったからだと思います。そういうアドリブに満ちた気まぐれさがストラディバリの魅力だと私は思います。

特にピケは、ニコラス・リュポーを助手として楽器を作らせて売っていましたが、作品はそっくりで見分けがつかないくらいだそうです。リュポーが独立したあとは、チャールズ・フランソワ・ガンなどの弟子が今度はリュポーの代わりに楽器を作っていたようです。そのように従業員が全く同じ楽器を作って社長の名前で楽器を売るということが行われていたので、楽器の形や作風が定まっていました。歴史上複数の職人が全く同じ形のものを作る流派というのも珍しいです。これがヨーロッパや世界中に広まって、それまでのオールド楽器にとってかわりました。
ピケはパリ国立高等音楽・舞踊学校のために仕事をしていたと資料にはあります。公的な立場で音楽家とともに新しい時代の楽器を研究していたということを示唆しています。

これは新古典主義という芸術の時代と一致します。古代ギリシャやローマ、イタリア・ルネサンスなどの古典作品を研究しそれを改良してさらに完璧にするという思想でした。つまりストラディバリモデルのモダン楽器は古典様式と言えるでしょう。古典を元にしながらもさらに改良を加え、欠点の無い完璧なものにするという思想です。従ってストラディバリの完璧なコピーではなく、さらに改良されたものだと考えていたはずです。パリでは、ギリシャ神殿をモチーフにした建物が作られました。アメリカの国会議事堂やホワイトハウスもそうです。その時代の主流の考え方だったはずです。現在のEU議会は現代的なもので古典様式ではありません。現代の人と弦楽器職人の世界では考え方が違いますね。文化財を復元するという考え方でもありません。


つまり、アマティに変わる変異種がピケだというわけです。
ピケやリュポーから世代が離れていくほど作風は特徴が薄くなっていきます。

ヴィヨームも若い頃はリュポーそっくりのものを作っていたのが、豪商として成り上がり自分で楽器を作らなくなるとモデルがストラディバリのメシアに変わります。アーチもまっ平らではなくちょっと高くなります。フランスでも1850~1900年頃にはアーチも少し高くなっていきます。

スイス出身の歯医者アレサンドロ・デスピーネがパリでヴィオリン製作を学ぶと、トリノに移ってフランスから職人を呼び寄せトリノのモダン楽器の流派が始まりました。ジョバンニ・フランチェスコ・プレッセンダヤジュゼッペ・ロッカもそのようにしてフランス風のストラディバリ型のヴァイオリンを作りました。

歴史を何も知らない人たちは、プレッセンダやロッカがストラディバリに似ていることを、ストラディバリ以来の伝統を受け継ぐ「ストラディバリの再来」と勘違いし値段が高騰しました。当時はストラディバリモデルの楽器を作るのが普通ですから似てるのは当たり前で、それはフランスから伝わったことです。ロッカがメシアのモデルで作っていますが、ヴィヨームの影響が考えられます。専門書にはこれを皮肉って、「ロッカはミルクールの楽器に似ている」と書いてあるものもあります。つまりフランスではミルクールが大きな産地で、その中で優秀な人だけがパリに行って一流の職人のもとで修行し、一流の職人となるのです。フランスでは同じ形のものを作るのでうまいヘタがはっきりします。当時からすでにヴァイオリン製作コンクールが行われ、今でも審査基準の基礎となっています。ロッカはそのレベルに無いためミルクール並の楽器だということでしょう。

デスピーネはアマチュアのヴァイオリン職人としてはおそらく最高額の25万ユーロ(4000万円)となっています。これがパリに残っていたらアマチュアの職人のまま名前も知られないままだったことでしょう。それだけ「イタリア製」ということが商業取引では大きな違いになります。間違っても職人の腕前によって値段が決まっているわけではありません。
リュポーやヴィヨームの弟子の中にも本人よりもさらに腕の良い職人もいた事でしょう、しかし、豪商として力を持たないと名も知れずに忘れられていきます。高い楽器を有り難がっている姿を見ると職人としては空虚に思えます。何も知らない人が普通の職人が作った楽器を数千万円で買って偉そうにしている姿をどうやって見るかということですね。それは自業自得ですからどうでも良いですが、子供の教育のために祖父母が財産を処分して高価な楽器を買って音が悪かったなんてシャレになりません。高価な楽器を買うなら必ず音を確かめてから買ってください。当たり前と思うかもしれませんが日本という国ではその当たり前が通用しないようです。


このような歴史があって現代の楽器製作や我々の知識ができています。
それは、音響工学的なエンジニアリングとは違います。

現代の楽器製作を正当化するような理屈が常識として語られてきましたが、言葉で作られた世界と、実際の音になると全く別世界の出来事です。なにも理屈は音について言い表せていないです。だから知識などは忘れて、楽器を弾いて音を感じれば良いのです。
それを言うために、いかにして今の常識が出来上がったかを説明しました。

知らなくても良いことです。全く知らないか、ちゃんと知っているかどっちかです。
中途半端な聞きかじったような知識は一番惑わせます。

だから当ブログでは何を知らなくても良いかを教えていきます。
知らないと不安が強いでしょうから、知らなくて良いということに自信を持ってください。

知らなくても良いというために出した一つ一つの話に食いつてしまう、スーパースペシャリストの人は自業自得ですから私は知りません。


職人として言えることは、強度が十分に得られる構造になっているかどうか、楽器ごとの規格に沿っていて演奏上問題が無いか、ペグがうまく機能するか、古いものなら修理にいくらかかるか、それから修理を施す値打ちがある一人前の職人が作ったものなのか、コストを削減する方法で作られた量産品か素人の作ったものかそれくらいのことです。音は何を好むかは自由です。・・・・強度が十分すぎる場合もわかります。


ネックが外れたヴァイオリンが持ち込まれました。
はずれた理由もちゃんと作ってないからですが、木材を足して接着面を作り直し、くっつければ元と同じにはできます。
しかし作られた時点で欠陥があるとそれをやり直さないと理想的にはなりません。表板を開けてブロック交換をし、継ネックが必要になります。
壊れた箇所以外の問題を見つけていくと修理代がいくらかかるかとなりますが、最初からちゃんと作れよと思います。ビジネスとしてはいかに早く作るかということが求められますし、楽器店からすれば早く楽器を作れる人を「天才」と考えるでしょうね。修理する側からするとそれとは違う評価になります。ニスの厚みが足りないとすぐに剥げてしまいます。
職人が分かるのはそういう話です、毎日朝から晩まで労力を費やしています。自分の楽器ではそうならないように時間をかけて作ります。楽器店は才能が無いと考えるでしょう。

外はこんな状況です。日中も氷点下です。

2月ころから作ってきたヴァイオリンもいよいよ完成です。

暗くてうまく写真が撮れません。
また天気が良い日があれば改めて撮り直しましょう。

裏板は板目板です。

弦は他の楽器に張って試奏に使ったオブリガートをとりあえず張っています。弦の力をかけて楽器を馴染ませるためです。
このモデルでは小型にモディファイしましたが元の方は2度作っていて、同じような板目板では一度作っています。
それは低音が魅力的で、音には深みや味わいがあり、柔らさもありました。

今回は木材は前の板目板のものに比べるとやや硬い感じはします。
弦を張ってすぐはそんなに低音が下から出る感じではありませんでしたが、しばらくすると鳴り始めて、翌日にはやはりG線が他の弦に比べてはるかに特別なものだとはっきりしました。すべての弦が均等にバランスよく鳴るのが良い楽器と考えられるでしょうが、これは明らかにG線に偏った楽器です。
最初のものが印象的だっただけにその時に比べると予測通りで置きに行った感じはしますが、はっきりと同じキャラクターになっています。小型化して351mmくらいのモデルになりましたが、低音が際立ったものです。胴体の大きさは低音の出方に関係が無いということです。同様のことはビオラで経験積みですから驚くことはありません。

戦後の現代的な楽器を弾き比べるとはるかに明るく響きが多くてよく鳴ってはいます。しかしそれは現代の教科書のような音です。それとは全く違って、暗く深みのある音がします。オールド楽器と弾き比べてもその点では全く違うという感じはしません。

それよりも印象的なのは特に低音は腹の底から声を出すような鳴り方です。フラットなものや量産品でも低音が強いものはあります。しかしそれはビャーという表面的な鳴り方です。これはペラペラな板ではなく「筒」が鳴っている感じがします。それがアーチの高さの違いでしょうか?
私がこれまで考えてきた高いアーチの音の特徴がまるっきりわからなくなりました。

実際に筒状のヴァイオリンを作ったらもっとそういう音になるのかもしれません。

音量は大きくは感じませんが、それはアーチが高いものに限ったものではありません、私が作ったら大人しいものです。そうかと思うとツボにはまるとボーっとよく響く底知れない感じがします。これからどうなっていくか楽しみです。
刺激的な音もせず地味な音でもあります。グイグイ自己主張するタイプではなく、独特な世界に引き込まれるタイプです。


こういう教科書通りの現代の楽器と全く違うタイプの音が出るのは面白いです。楽器作りをやっていて特に面白い瞬間です。

以前作ったものとは違う木材であるにもかかわらず音には共通する特徴がはっきりと出ています。その時だけまぐれでその音になったのではなく、作りを同じにすれば同じような傾向の音になりました。したがって、木材によって音が決まるのではないでしょう。やはり作り手によって、また作りによって大きく音は変わることが分かりました。現代の常識の中で楽器を作るとやりようがないため、材料に凝ったり、ニスに凝ったりするしかないのかもしれません。

しかしそれがRPGのゲームや野球チームの能力を示す角形グラフのようにステータスの数字を入れ替えると音が変わるというよりは、パッケージだと思います。

ガルネリ家のモデルでぷっくりとした高いアーチ、薄い板厚が組み合わさった瞬間に強烈な特徴ある音になるのでしょう。
一つだけの特徴と音の規則性を考えても意味がないのかもしれません。

このため別の高いアーチの楽器とは何の共通点も見いだせないのかもしれません。


こういう面白い経験は止められないので、セオリーに縛られることがいかに損か実感します。これだけ音に特徴があれば、好きか嫌いか判断することもできるでしょう。セオリー通りまじめに作られた楽器であればどれも悪くないし、かと言って極端に良くもありません。始めに思い込みがあると有名な作者の名前がついていれば良い音に聞こえるし、値段が安ければ安物の音に聞こえます。だから試奏しても有名な作者のものを選んでしまう事でしょう。一方名前や値段を見ずに音だけで選ぶなら古いものの方がよく鳴ります。

私は自分で楽器を作って来たのでそのような「普通の音」をいかに脱するかに取り組んできました。何度も同じ形のヴァイオリンを作ったことでそれがまぐれではないことを証明しました。

私は自分が最初に作ったもの、先輩や職人の仲間たちが作って普通の音というのを基準に考えていますが、そのような楽器を持っている人はさほど多くはないかもしれません。
人それぞれ今使っている楽器が違います。自分が使っているものとの比較になるため、感想は人それぞれになることでしょう。


また5mmほど小型化したのに音のキャラクターはそのままでした。1㎝大きなものよりも低音に深みがあります。数字にこだわっても意味がありません。アーチの高さについても音の規則性がよく分かりません。

板の薄さが低音の強さに関わっているのは間違いないでしょう。しかしそれ以上になっているのはそれより高い他の響きが抑えられることで強烈なキャラクターを生んでいるのだと思います。響きを抑えるのはアーチの高さによるところでしょう。したがってより音を制御していると考えられます。

試してみたい人はまだ予定は埋まっていないので考えてみてください。

今後の経過と他の弦も試してみたいと思います。


パラメーターの数字を少しずつ変えることで音を作って来たのではなく、ピエトロⅠ・グァルネリというパッケージで楽器を作ったら突然そんな音になりました。
他に同じようなものは、マントヴァのトマソ・バレストリエリが筆頭かなと思います。同じくマントヴァにはカミロ・カミッリという作者もいました。
他にはジュゼッペ・グァルネリやデルジェスにも高いアーチのものがあります。またベネツィア派ならもう一人のピエトロ・グァルネリも可能性があります。

ちょっと違うのは、フランチェスコ・ルジェリです。ストラディバリとこれの間くらいになるかもしれません。ルジェリは意外と資料が少ないので現実には難しさもあります。若い頃のストラディバリもそれに近いものでしょう。

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