楽器製作理論、トランジェントという概念、ビジネスとしての楽器作り | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

こんにちはガリッポです。


週末は出かけていたので更新がありませんでした。
今回は軽い内容です。


ヴァイオリン製作の理論についてお話ししましょう。
運転免許の教習所に行くと、学科と実技の授業を受けると思います。その学科に当たるのがヴァイオリン製作理論です。効率的に楽器製作を学ぶためのものです。初心者にはわかりやすく、誰でもヴァイオリン職人になることができます。

これがヴァイオリン製作の理論です。

そんなレベルのものですから、私はそれを学んだくらいですべてわかった気になるなと言っているのです。初心者の学ぶ知識というわけです。

これが実際の楽器を見ていくと全く当てはまらないものが良い音がしていたり、理論上間違っているものでも音が悪くなかったりします。このためこのような理論は意味がないと分かります。そこまで来るのにヴァイオリン製作を学んでさらに実務経験が必要ですから、一般の人は到達しないでしょう。そのレベルの知識で評論家気取りのコメントをしてくる人がいますね。

例えばグラデーション理論があります。これは裏板や表板の厚みに関するもので、中央から外側に行くにしたがって同心円状に薄くする手法です。
それを偉い職人から教わるとさも正しい知識を学んだかのように思います。でも実際そのように作られた楽器がずば抜けて音が良いこともないし、それではないシステムで作られたものに音が良いものがゴロゴロあります。

古い楽器を見ることは、自分たちが思いつかない発想で作られたものを経験することができます。それに対してグラデーション理論を信じている人は、グラデーション理論が正しいかを知るために、グラデーションじゃないものを試作して比較実験しているかというと、師匠に教わったので優れていると思い込んで実験をしていないのです。それが理論的な楽器作りです。

本当に論理的に物事を考えているのではないのです。

ただ、「しきたり」を学んでその通りに作っているだけです。理論というよりはルールというか経典ですね。

板の厚みについて言えば、駒や魂柱の来るところは力がかかるので、変形や損傷などのリスクが高いので、あまり板を薄くし過ぎてはいけないということが、修理などを通じて学ぶことができます。
それ以外のところはもっと薄くしても大丈夫ということが言えます。それだけです。
それを、周りに行くにしたがって薄くすると音が良いというのは飛躍しています。

それに対してなぜ音が良いのか何の合理的な説明もありません。

じゃあ全部同じ厚さにしたらどんな音になるのかの説明もありません。やったことが無いのに理論を信じているからです。

理論がなぜダメなのかと言えば、およそ納得できるレベルの理論が無いからです。

初心者が学ぶ理論から研究を進めることもできるでしょうが、思い込みを無くすために何もかも一度否定しないといけません。それが楽器製作理論の否定です。
理論的に楽器を作っている人が現代の常識の枠をどれだけ打ち破っているか疑問です。常識の範囲内で理論を言っていてもただ常識をなぞっているだけです。
100年前でも作者や流派がたくさんあって、発想は今の一人の人が思いつくよりもずっと幅広いです。

試み自体は否定するべきではないでしょう。しかし結果について検証を行うという発想が無い人が少なくありません。なぜ頭で考えた時点で終わりにしてしまうのか私にはわかりません。逆に結果で音が良ければよいとなると理屈なんてどうでも良いということになります。私は本来理屈っぽい人間ですが、だからこそ理論家は理解できません。自分たちの流派や師匠を過大評価していて、100年前の職人たちを過小評価しているのです。彼らも自分たちと同じように楽器製作に取り組んでいたはずです。


地元の大学の音響工学の研究に協力したことがあります。そこで困ったのは弓で音を出す時に弾く人によって音が違うことです。そこでベルトコンベア式に弓の毛を動かして弦を擦る機械を開発することでした。この機械を開発することに成功しませんでした。私は、スピーカーの心臓部のようなもの(アクチュエーター)を当てて振動を起こすほうが良いのではないかと思いますけども・・・。
ヴァイオリンの自動演奏は100年くらい前にオルゴールであったと思います。それを今の人が作れないのですから。

いずれにしてもそうやって機械で測定すると、見てもよく分からない測定結果が出ることでしょう。ある人は、ストラディバリと自分の作った楽器の測定結果を並べて「ほら同じでしょう?」と見せるわけです。見ても全く同じではないし全く違うわけでも無さそうでよくわかりません。おそらくフルートよりはストラディバリの音に似ていることでしょう。でもこういうトリックに引っかかってしまう人もいるようですね。
常識の範囲で楽器を作り、普通のよくある現代楽器と同じような音なのに、機械で測定したデータを示してさも優れているかのように見せているのかもしれません。自分の楽器作りを肯定するデータを作っているのでは測定する意味がありません。


なんか書けば、文章の端っこに出て来た主題から外れた一つのことに食いついてしまいますね。職人の仕事でも、些細なことが気になりすぎて、本来考えるべきことが分からなくなると、作業の効率が下がり仕事の結果もおかしくなります。何のために仕事をしているかわからなくなっている状態です。職人としてはダメです、読書としても良いとは言えないでしょう。

もうそういう人のために文章を書くのではなく、私は普通の国語力を持った人のためにやっていきます。



以前音響工学の話が出ました。
測定でも、一つの視点からしか測定できません。
オーディオ製品では「周波数特性」というのはどの帯域の音がどれだけ出ているか計測するものです。
このような特性では明るい音や暗い音というような音色について知ることができるでしょう。音色について意識が行くのはオーディオの経験がある人に出やすい傾向かもしれません。音楽だけの興味なら音色にはあまりこだわりが出ないでしょう。

それに対して、「過渡特性」というものがあります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8E%E6%B8%A1%E7%8F%BE%E8%B1%A1
説明を見てもわかりにくいでしょう。
状態がそれまでと別の状態に変わる間のことでしょう。例えば太鼓の場合、音が出ていない時は静止して皮は振動していません。太鼓をたたくと振動が発生します。止まっていた皮が動いている状態に変わるのです。そのあとは動いている皮が止まります。その二つの変化があります。

太鼓をたたくと止まっていた皮が振動をはじめ、空気を振動させて耳まで届く一瞬のラグがあるわけです。その間に起きていることが音の性格を決めるのです。

過度特性と言われますが、オーディオ製品で測定されたスペックなどが表示されていることは見たことがありません。音がもやっとこもっているなら過度特性に難があると概念として理解するだけです。

太鼓の音なら、叩いた瞬間に音量が一気に最大になり、そこから減少していきます。打楽器の音はそうです。ピアノやギターでもそうです。
https://www.youtube.com/watch?v=eYPjGMQXk08
この動画ではギターの音に加工を加えて鋭さを和らげる方法を紹介しています。
違いが分かったでしょうか?

クラシック以外のポピュラー音楽では、楽器ごとに別々に録音し音を調整してコンピューター上で混ぜるミックスが行われて製作されています。クラシックの場合には普通は合奏をしてそれを録音します。
ポピュラー音楽のように一つ一つの楽器をマイクの近くで演奏すると音が鋭くなることがあり、それを調整するコンピュータ上のソフトがあるというわけです。これは楽器から離れていくと楽器が振動を始めてから耳(マイク)に届くまでのタイムラグが大きくなっていきます。音はマイルドになっていくことでしょう。マイクが近すぎると鋭くなりすぎるということで、調整する必要性が出てくるということですね。距離によって過渡特性が変わってきます。「遠鳴り・傍鳴り」などの現象にも影響していることでしょう。

過渡現象のことをトランジェントと言います。
このトランジェントに加工を加えるソフトを使っているのが先ほどの動画です。
先ほどの説明のように止まっている楽器が振動を始めることを「アタック」または「パンチ」、音が弱まって振動が止まるまでの余韻を「サステイン」という言葉でパラメーターを変えられるようになっています。
https://www.youtube.com/watch?v=sjQIyAvbiJ4
トランジェントシェーパーというソフトがあります。
さらにどういうふうに動かせるかは次の動画
https://www.youtube.com/watch?v=xXu3R8yvRWM

私もこんなものをネットで見つけたというだけで使っているわけでも無いし意味も分かっていません。

面白いのはトランジェントという概念で音が硬いとか柔らかいということを説明しています。打楽器ならアタックを強調すると叩いた瞬間の音が強くタイトに感じます。アタックを弱めるとボヨンとにぶい音になります。サステインの余韻を増やせば甘くふくよかに感じ、サステインを締めればはっきりした音になります。

問題はこれが擦弦楽器でも言えるのかということです。
それに関しては情報はみつけられていません。録音技術者などで様々な楽器を扱う場合、擦弦楽器は持続的な音でありアタックのような現象は無いということです。そうなるとそもそも擦弦楽器は柔らかい音の楽器ということですね。

でも我々はヴァイオリンの中で、柔らかいか鋭いかということに興味があります。


でも私が以前から話してきた内容なのですが、量産楽器では弓が弦に触れたとたんにギャーっと音が出るのに対して、上質な楽器ではじわじわと音が出ると語っていました。このことと通じるところがあるように思います。「量産楽器の音」とはアタックが強調されている状態です。一方柔らかい音の楽器は音の立ち上がりが穏やかです。

数学では円を中心から同じ距離の点の集合体と説明することができます。これと同じように持続音でもアタックが連続していると考えることができないでしょうか?そうなると擦弦楽器でもトランジェントの概念で音の鋭さや柔らかさを説明できるのではないでしょうか?

たとえば、ピラストロ社のエヴァ・ピラッチ・ゴールドというヴァイオリン弦ではアタックが強調されているように感じます。


しかし楽器作りで、何をどうやったらトランジェントの特性に違いを生み出せるかはよく分からないですね。量産楽器はなぜアタックが強調されるのかわかりません。

100年くらい経った楽器で鋭い音の楽器が多いので、アタックが強くなっています。木材の化学的な変化があるのかもしれません。
低音が強くビオラのような深みのある音で、ギーっと乾いた音がするものがあります。アタックが鋭ければこもった音にはならないのでしょうか。逆にこもった音というのはアタックが甘いという事でしょう。アタックが鋭いと同時に高音がひどく耳障りになってしまいます。

これを明るい音、暗い音という概念は周波数特性であり音色のことです、的外れでしたね。トランジェントで説明する方が的を得ているかもしれません。


トランジェントシェーパーは音域ごとにトランジェントを調整できるので高音はマイルドに、低音はメリハリをつけた音にできるでしょう。しかしこれを実際の擦弦楽器で行うのは至難の業です。マイクで録音して音を加工するしかありません。

それが面白いのは以前私が修理した南ドイツの真っ黒のオールドヴァイオリンです。低音はアタックがとても強いのに、高音が柔らかいのです。なぜでしょうね?モダン楽器では低音が強いと高音も鋭いのです。

高い三角のアーチによってトランジェント特性に違いが出ているのかもしれません。高いアーチでは余韻が短いということはこれまでも説明してきました。つまりサステインのおさまりが早いのです。フラットな楽器のほうが音が消えるのに時間がかかることでしょう。
高いアーチの楽器がタイトでダイレクト、どちらかというと強い音になるのはトランジェントでタイトな音になっているのでしょう。しかし、高いアーチのオールド楽器でも柔らかい音のものがあります。

またフラットな楽器がソフトな音というわけでもありません。アタックは強いものがあります。

アタックを強めたり弱めたりする単純な方法は魂柱の位置です。駒に近づければアタックが強くなり、離せばマイルドになります。ただ他の音の要素も変わってしまうので、それですべてがうまく行くとは限らないでしょう。演奏者がアタックの強い音が良いのか、じわっと音が出るほうが良いのか、その人の演奏スタイルによって魂柱の位置は変えます。



私が分かっていないので説明もわからないことでしょう。
しかし現実の世界では相手の知らない知識をひけらかすと相手をビビらせることができます。自分の知らないことを言われると不安に襲われ相手を強く感じてしまいます。逆に分からないとか知らないという態度を見せると負けになります。そんなのはどちらが上かという心理的な戦いであって、知識の正しさとは関係がありません。そういう事を私はしたくありません。何でも知っていて知らないことが無い方がカッコいいですが、私は分からないことを恥を忍んで分からないと白状しています。



最後にヴァイオリン製作を産業としてやっていく場合と、私のように半分趣味のような場合では大きく違うようです。ビジネスとしてちゃんとやっている会社は、いかに安く作るかということに力を入れています。実際は力を入れるというよりはむしろ手を抜くことでコストを下げています。
メーカーが製造し、外国に輸出し、楽器店で販売するとなると、とにかく大事なのは安く作ることです。更新が遅れましたが、この間にそういうメーカーの話を聞いていました。私には信じられないほど安い値段で楽器を作っているそうです。同じ職業でも全く違います。私の方が趣味のようなもので、安い楽器を作る方がプロなのかもしれません。末端価格は安くないので見ても違いが分からない一般の人には安く作られているかもわからないことでしょう。

楽器店の店頭に並ぶ楽器というのは輸出産業のビジネスモデルとして確立しています。それは、安く作って商業的な「聞こえの良さ」があるということです。ですから、そのような作者の評価などは究極的な楽器作りとは全く違うものです。世界的に評価されるのはそのようなビジネスを確立したメーカーです。生産国ではむしろ出回っていません。

このように店頭に並ぶ楽器というのは楽器としてその値段で売り物になるギリギリまで減らした作業量で作られているものだということです。前回は子供用の楽器の話でしたが、丁寧に作れば音が良いのは分かりきっていてもそのようには作られてはいないという話でした。同様に4/4でも木材の加工を最小限の作業にとどめているのが店頭に並ぶ楽器です。音を作る工程などは当然ありません。板の厚みを薄くするほど作業時間がかかるので、その時間をケチって厚すぎる板のものが作られています。それをウンチクを言って名工だの天才だの言って売っているのです。そんなレベルの話なんですよ。


世界一の天才がどうかよりも、たまたま目の前にある楽器が並み以上の職人に作られたものであるかどうか、それを見分けるのが重要だと思います。近所に並み以上の職人がいたら仕事を任せることができるでしょう。ヨーロッパならどこの町にも職人がいますから、輸出産業として世界的に知られたメーカーよりも近所の職人がのほうがていねいに仕事をしているというそんなレベルの話です。私の言いたいことがわかるでしょうかね?観光客相手の店と地元客でにぎわう店の違いですよ。

コレクターには多いですが自分が知っているメーカー名で限定して楽器を探すととても可能性が小さくなります。自分が無知で少ししかメーカーを知らないせいで、良い楽器をたくさん見逃すのですからわかっている人から見ると哀れなものです。それで自分は詳しいと思っているのですから、何も知らずに試奏して楽器を選ぶ方がよほどましです。