「通説」と現代の楽器の音、オールド楽器の修理、f字孔など | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

こんにちはガリッポです。

南ドイツのオールド楽器の続報から。

近代や現代にはヴァイオリン製作のセオリーがあって私も修行を始めて初めに学びました。「通説」と信じられているものです。初心者が学ぶ知識のほうが確からしく見えます。深く取り組んでいくほど分からないことが多いことに気付きます。通説を学んで「自分は分かっている」と思って一生を終えればそれはそれで幸せでしょう。私よりも確かな知識があるのなら、これ以上私のブログを読む必要もありません。読む人が少なくなればより深いことが書けるようになっていきます。

まじめに通説通りに作られた楽器は比較的たくさんあり、いつでも買うことができます。それで満足している人はそれで良いですよ。なにも否定しません。まじめに作ってあれば良い楽器だと思います。中古品では新品よりもよく鳴るようになっていて値段も多くの場合には新品よりも安いです。それ以上にはるかに粗悪品が多いものですから立派なものです。定説も勉強せず自己流であれば一生プロのレベルには到達しないでしょう。

ただし、セオリー通り作っていると現代の楽器の常識を超えた違う音のものが作れません。
違う音が必ず優れているという意味ではありません。しかし音にキャラクターがあれば好きか嫌いかの感情を持つこともできるでしょう。


現代の通説では良くないとされているような楽器に興味を持つと面白いかもしれませんよと紹介しています。何故かというと現代の通説通り作られた楽器と違う音がするからです。それでいて場合によっては値段も安いのです。
紹介しないほうが良いかもしれませんね。欲しくなっても数が少ないので全員の分はありませんから。

私も職人として初心者の時に現代のセオリーを学びました。しかし実際にいろいろな楽器を目の当たりにするともっとセオリーから外れても大丈夫だということを経験しました。
オールド楽器やモダン楽器では現代のセオリーから外れたものがたくさんあり、必ずしも現代の楽器よりも音が悪いということはありません。それどころか魅力的な音のものもたくさんありました。私が個人的にどう思うかというだけではなくお客さんの反応も見ています。こちらでは、何の予備知識もなくただただ試奏して楽器を選んでいます。現代のセオリーで作られた楽器が音で選ばれて人気が集中しているという感じはしません。…言いにくいことではありますが、どちらかというと売れ残っている感じです。職人から見ると正しく作られた良い楽器だと思うのですが。音の好みが変わってきたと師匠も言っていますが楽器の選び方が変わったのもあります。かつては職人を尊敬して言い分を聞き楽器を作ってもらうという感じでした。今はとにかく試奏して音が良い楽器を選ぶというふうに変わってきました。
そのような新作楽器を作ってもなかなか売れないのでどうしたものかという感じです。うちでもかつてはそういうものをコンスタントに作って売れていましたが年々人気が無くなってきています。それでも音は好みなので好きな人もいるし、日本人の好む音なのかもしれません。

セオリーが間違っているというよりも正解が狭すぎるように思います。もっとめちゃくちゃでも大丈夫だと思います。ニコロ・アマティは理屈上正しいはずの現代の楽器とは全然音が違って濃厚なコクがありました。「こう作ると音が良い」というはっきりしたマニュアルがなくもっとアバウトなのが本当のところでしょう。そのアバウトな理解の仕方が職人としては経験とか熟練です。一般に仕事のマニュアルは意味が分かっていない新人にもパートタイムの労働者にも同じ仕事をさせるのに役立ちますが、精通した人にとっては浅はかなものです。誰も意味が分かっている人がおらずマニュアルだけが受け継がれ、意味の分からないしきたりが職場にはあるものです。

現代のセオリーは現代の一時的な考え方であって未来には変わるかもしれないし過去には違っていました。その知識は今という時代に制約されているのです。いうなれば確かさを求めるほど「時代の奴隷」になっています。そこから自由になるともっと弦楽器は面白いですよ。頭が固い人には無理でしょう。お客さんの反応からするともはや現在ですらないような感じもします。21世紀になって20年も経っているのです。


オールド楽器の場合にはケチをつけていくと全く買うことができません。ここが良くないとかそういう点を見つけて否定していくと何も買うことができません。究極の楽器を探して一生買う日が来ません。その数十年の間、宝くじを買い続けるよりも不完全なものでも弾いて楽しんだ方が建設的な人生です。文句を言ってるうちに他の人に楽しみを取られてしまいます。
師匠はかつて韓国の人とやり取りがあり韓国の人が完璧さを求めることを言っていました。「そんなものはあるわけない」と言っていました。矛盾した要求をしていれば夢がかなう日は来ません。寛容さが必要です。そして楽しみを得るためには世間を出し抜く狡猾さも必要です。
先生や年配の人では昨今の楽器や弓の値段の値上がりを知らないことでしょう。
良いものだけでなくそれにつられて何でもないものまで高くなっています。
かつてはバカにされていたものでも頭を切り替えて、お金ではなく楽器としての魅力を見直してみるのも他人を出し抜くテクニックです。・・・それこそ教えるべきではなかったかもしれません。


最近はアナログレコードの生産が伸びていると聞いたことがあるかもしれません。それと同じようなことでオールド楽器というのは独特の世界があります。しかし資金が数千万円ないと踏み込むことさえできないのでは99%以上のユーザーには楽しむことはできません。
しかしながらアナログレコードで音楽を聴くことは主流ではないでしょう。あくまで趣味趣向の話をしています。新しいものが出てくると古いものは主流ではなくなります。でも根強いファンがいたり、新しい世代には新鮮に感じられることもあるでしょう。

このブログも毎日数百回見られているようですが、その全員がオールド楽器の世界に踏み込む必要はありません。通説通り作られた現代の楽器が好きならこれ以上読む必要もないです。

普通は数千万円するオールド楽器が場合によっては100万円もしないものもあるし新作と同程度のものもあります。弦楽器に興味があるならそのようなことはとても面白いことだと思います。そのようなズルい道があることを許せない人もいるのかもしれませんね。

今の時点で割れが開いているわけではありませんが、傷が黒い線になっているのでやり直せばもう少しきれいになるかもしれません。

接着をし直すとだいぶましにはなりました。ニスがはがれていますが、もともとニスが無い所ですからニスの補修でさらに何とかしましょう。こうやって手をかけると職人としてはお宝感が出てきます。

内側には新しい木材を張り付けて補強します。

周辺の割れを接着するとこのように板に押し付けて伸ばすことができるようになります。割れがあると開いてしまうからです。古文書でも板に挟んで重しをして伸ばすなんて聞いたことがあります。江戸時代の楽器ですからやってることが同じですね。

駒の脚が来る部分を中心にアーチがへこんでいます。必ずしもこれで音が悪くなるわけではありませんが、直せたらアーチの丸みが出て作られた当初のような玉のような美しさになることでしょう。

プラスチック板をあてがうとこんなにへこんでいます。

型取りをします。表面に付着しないようにするために錫箔で覆います。

取った型を削ってヘコミを修正します。そこに表板を押し付けるわけですが、また次回です。


外からは分かりませんでしたが下のブロックが割れていました。ちょっとしたことなのにどうにもならないので交換することにしました。これは結構難しいものです。形が変わってしまうと表板の形と合わなくなってしまいます。新作楽器なら裏板と同じ形のはずです。しかしオールド楽器ではそうではありません。


エンドピンの穴も埋めて開け直しました。過去の穴の位置は楽器のセンターから少し外れていました。オリジナリティという点では元の位置に穴をあけたほうが良いのかもしれませんが、このほうがテールピースのおさまりが良いです。

穴の位置がブロックの中心からは外れています。過去のブロックもオリジナルではなく横板の損傷を補強するために大きなものにしてありました。このため穴が中心に来ていません。しかし楽器の中心線に来るようにしました。

こうやって大事に大事に修理していくと愛着がわいてしまい、客観的には見ることはできません。こうなると私には音を第三者として評価することもできません。

職人の興味関心はへこんだ表板をどうやって直すかということです。私には面白いことでも音楽とは全く違う種類のものです。

ちょうどグランチーノが来てましたが、測っていませんがサイズ的には同じくらいかもっと小さい感じです。値段は10倍以上違いますが、職人の感覚だとそこまで違いがあるようには思えません。音は頭ではなく耳で評価するしかありません。
グランチーノのほうが仕事は雑です。ミラノ派は庶民向けの楽器を作っていたようです。ちなみにミラノもクレモナもオーストリアの配下になります。


自作のヴァイオリン

現代のセオリーを一つ一つ見直して本当にそうでなくてはいけないのかということを実験してきました。極端に言えば近代のヴァイオリン製作ではストラディバリだけが正しいヴァイオリンということになります。このため「当時の人の目に写った」ストラディバリの特徴をルールとしてまとめ、ストラド型のヴァイオリンの作り方が近代以降のヴァイオリン製作法となりました。それだけだと飽きるのでデルジェス型も作られるようになりました。しかしオリジナルに忠実というよりも多くは、ストラド型の作り方で形だけを変えたものです。「ストラド型=普通のヴァイオリン」で作っているのにそう見えないものはたくさんあります。

作る人によって音が違うということを言っています。同じストラド型でも人によって音が違います。ストラド型で作っても別の人が作ればバラバラの音になるのならストラド型にこだわる必要が無いように思います。

しかしあまりにもストラド型のヴァイオリンが普通であるため他のものを作るのが難しいです。現代の職人はストラド型とガルネリ型以外のものを知らないのです。
だからコピーではなくて、自分でデザインしても基本としてストラド型の特徴が残ってしまうのです。形だけを別にしても楽器の作りの根本がストラド型の近代や現代のものと変わらなければ真正面から見たときの形が違うだけで音にもさほど違いは出ないでしょう。

ストラディバリやデルジェスと違うものとして私はアマティやマントヴァのピエトロ・グァルネリのモデルで作ってきました。それでもすごく狭い範囲の話ですね。同じ流派としての共通基礎があるはずです。その基礎を理解すると、ストラディバリやデルジェスのことも単純化され理屈にされ伝言ゲームのように伝わって来た「通説」よりも深く理解できるのではないでしょうか?

アマティのモデルは近代以降イタリアやチェコのプラハなどで作られてきました。しかし、完全にオリジナルというよりは近代風に手直しされています。つまりストラド型の作り方の影響を受けているのです。職人の感覚からするとストラド型のようになっていないと「おかしい」と感じるからです。

ピエトロ・グァルネリはぷくっと膨らんだアーチで形も丸みを帯びています。玉のような楽器です。こういうのも1600年代のオールド的です。真似て作ってみると音も普通の現代の楽器とはだいぶ違います。私が現代のセオリーで作ったら出ない音じゃないかなと思います。音はちゃんと出るので好きか嫌いかの問題です。オリジナルのアマティよりは薄い味ですが、典型的な現代のものよりは味があります。

音量が出ないので高いアーチの楽器自体を作るべきではないというのが「通説」ですが、実際に作ってみたら音量にはっきりした違いは出ませんでした。むしろ演奏者には手ごたえが感じられます。遠鳴りはフラットでも板が厚めのものよりは優れているでしょう。一方通説通り作ってもそんなに音量は出ません。だったら好きな音だと思う人がいればそれで良いと思います。

実際そのような要求があって、その人のためだけに一生懸命できる限りベストを尽くして作っています。他の人が気にいらなくても全く問題ありません。

通説が本当に正しいのか誰か検証した人がいるのでしょうか?
作ってはいけないと信じられているものを私の周りではほとんど誰も作ったことが無いです。これでは本当に通説が正しいのかもわかりません。


これ以下は日記的な感じで書いていくだけなので興味ない人は読まなくて良いです。一人の人のためだけに楽器を作っているのですから。

板の厚みの話をこの前しましたが、次はf字孔です。
f字孔はそれ自体が音がどうとかいうものではありません。少なくとも形を変えたら音がどう変わるか法則性は見出すことができないので「音を作る」という事には利用できません。実験のしようがないのです。f字孔の実験だけで収入を得るのは難しいです。

f字孔はとにかく難しい仕事で、ちょっとしたミスで大惨事になります。ミスすると後でニスを塗るときにずっと後悔します。でも逆に言えば完璧ではない楽器が多いという事でもあります。ストラド型を作った後にアマティ型のf字孔を開けようとすると形が違うので気持ち悪いです。慣れの問題でしょう。

オールドの時代には適当で、穴の丸の位置を決めて頼りない型紙があるだけでほとんどフリーハンドで開けていたようです。だから古い楽器では左右の形も全然違います。近代では当然テンプレートの型があってそれを左右反転させています。それでも目の錯覚で全く同じには見えません。ストラディバリのf字孔が左右傾きが違うのは有名です。本人には左右対称に見えていたのかもしれません。そういう本当に微妙な世界です。

もう一つ難しいのはアマティ派はf字孔が細かったです。魂柱も今よりもずっと細かったはずです。しかし現在では6mm以上の魂柱を入れないといけません。f字孔の幅を広げるとオリジナルとは全く違ってしまいます。それで大惨事になってしまいます。
また本やポスターなど平面の写真から型を起こすと立体になると形が違ってしまいます。特に高いアーチではどうしようもないです。それがピエトロ・グァルネリ型で作る時の問題です。厳密に言えばストラドモデルでも問題は同じです。

フリーハンドでやったらどうなるかわかりません。完成度が高い型がある方がはるかにリスクが低いです。デザインを決める時には紙をアーチにあてがって描くと後で誤差が出ないでしょう。

こんな感じで見比べながらやっていきますが線になるとよくわからないですね。大きさも全然違うように見えます。しかし後で完成したものの上端から下端を測ってみるとほぼ同じでした。もちろん遠近感があって作図は手前にあります。カメラのレンズが強調したのでしょうか?ピエトロの他の楽器を見るとf字孔はかなりばらつきがあります。本人でさえ同じものを二つ作れなかったのかもしれません。

アマティや弟子で父親のアンドレア・グァルネリともストラディバリとも違う独特のものです。丸い所の直径が大きい感じがします。ストップの位置などもオリジナルとは変えています。オリジナルは長すぎるストップでこれは短めにしていますから全然位置が違います。私はストップの位置が違うと見た瞬間にわかります。長すぎると売り物にならないので瞬時に気付きます。

ノコギリで切っていきます。ナイフで広げるのが簡単なので正確に切る必要はありません。

出来上がってみるとなんとなく雰囲気があるように思います。大惨事にならなかっただけでも良しです。20年以上やってきてようやくこの程度です。

f字孔の幅を現代のように広げるとおかしくなってしまいます。オールド楽器ではf字孔周辺の表板が何度も魂柱を入れ直し、時には強引にぐりぐりと押し込んだ作業で傷つき摩耗して広がっています。表板の変形によっても隙間が広がっています。クレモナ市の所有するジュゼッペ・グァルネリ・フィリウスアンドレアでは後の時代の人がf字孔を広げたのでしょう、ひどい大惨事になっています。観光用などの資料などを持っていたら見てください。本来はとても細いものだったと思われます。そういう高価な楽器の修理をしたのは一流の店かもしれませんがそれでも緊張したらやりかねません。そういう怖いものです。
右の方が若干広くなっていますが6mmの魂柱が入るギリギリです。ピエトロの特徴はfの横線に当たるノッチと呼ばれる「刻み」が大きいです。ここに魂柱がはまると少し余裕があります。
当初の作図とは切り抜く過程で多少変わりました。しかしアドリブでやるのはとても危険です。f字孔のところにちょうど荒い木目が入っています。とても硬くガタガタにならないように加工するのはとても難しいです。このような年輪のイレギュラーな感じは整い過ぎたものとは違うアクセントになることでしょう。

音がどうとかそういう話ではありませんが楽器の顔になるパーツですね。


バスバーを取り付ければ表板は一つの部品として完成です。

f字孔の左右の間隔もバスバーの取り付ける位置に影響してきます。アマティではとても狭いのに対してピエトロは大丈夫です。


現代とは違う時代に作られた楽器は現代の通説からは外れている要素がよくあります。当たり前ですね、時代によって考え方が違うからです。
現代の考え方から外れている楽器の音が必ず悪いということはありません。高価な楽器だけではなく何でもないような楽器も試してみるべきです。いろいろな発見があると思います。

現代のセオリーも間違っているとまでは言えません。しかし弦楽器の作り方にはもっと幅広い可能性があるように思います。現代の人が忘れてしまった可能性もあるかもしれません。少なくともそれを探求していくことが私の目指していることです。私は考え方がかなり変わっているところがあるでしょう。しかし頭を柔らかくして常識にとらわれないクリエイティブさもモノづくりでは重要な要素ではないでしょうか?




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