マルクノイキルヒェンの弓の値段とニスを塗り直した話 | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

こんにちはガリッポです。

まずはマルクノイキルヒェン派の弓の値段から。
主に20世紀前半に最盛期を迎えたのがマルクノイキルヒェンの弓製造です。戦後は東ドイツになって市場を失い衰退します。西ドイツ側のブーベンロイトに移った職人もいます。

値段は普通マイスターの名前があるヴァイオリン弓はこちらで20~40万円位です。為替が安定してないので日本円で考えるのも難しいところもあります。ユーロは記事を書いた現在では140円台後半ですが、過去20年くらいの平均では120~130円くらいでしょうか?
ちょっと有名になると50万円前後、100万円を超えるようなメーカーもいくつかあります。
1万ユーロを超える作者の多くは19世紀の職人でちょっと古いものです。このようなものは数も少なくめったに見ることはありません。それらよりも新しいとなるとニュルンベルガー家のもので実用で使われています。さらにH.R.プレッチナーも有名ですが、工房の規模が大きくて数は多いです。プレッチナー家は今でもつづいていて、ずっとH.R.プレッチナーのスタンプですが、最初のヘルマン・リヒャルトがヴィヨームの弟子で最も高価なものです。100万円くらいはするでしょう。後の世代のものは安くなります。この辺りはニセモノにも注意が必要です。また部品のどれくらいがオリジナルなのかも値段には重要です。
100万円または1万ユーロを超える価格帯になってくるとフランスの古い弓も候補に挙がってくることになります。
50万円越えの作者になるとずっと限られてくるのでプロの人が持っているのにふさわしい感じがします。ただし、やはり試してみて判断しないと高い弓だからと言って必ずしも気に入るとは限りません。

現在でも続いている家もあり、機械化して輸出を行う大量生産になっているメーカーもあります。大量生産品でよく見る名前であっても、かつては立派な弓を作っていたというケースもあります。現在でもカタログには上級品のラインナップも出ているでしょうけども。日本でよく見るドイツのメーカーがあるとしたらの新品を作る量産メーカーでしょうか。マイスター作とは言えなくても品質の良いものは見たことがあります。

あとは金属の素材によってランクが違います。金属部分に金を使用したものは最も高価でそれに合わせて最上級の木材で作られています。通常は銀製さらに廉価な500円玉の洋白という合金もあります。しかし演奏上は必ずしも金が良いということは無くコスパは悪くなります。洋白も当時は新素材で必ずしも安物として用いられたわけではないという説もあります。またフロッグに象牙やべっ甲などを使ったものがありますが、今日では野生動物保護の対象になるようなものです。
チェロになるとずっと高くなりますし、ビオラ弓は数が少ないです。

弓は作るのに1週間かからないと聞いたことがあります。ヴァイオリンに比べるとはるかに短い時間で作れます。そう考えると値段がどれくらいが妥当かはおよその見当がつくでしょう。骨董品ではない新品の場合、1週間で職人が作るものの値段としておかしい場合は、中間業者の取り分が多いということになってしまいますね。


こんなケースで困っていることは無いかもしれません。誰も参考にならないでしょうが・・・。

以前から話しているニスが失われたヴァイオリンです。
これで音が出ないわけではないでしょう。しかし売り物にはなりません。不用品として安く買い取ったものの、売りに出せなければいくら安くても損でしかありません。

簡単にニスが塗れないかと思うわけです。

ニスにばかり注意が行きますが他にも問題があります。いわゆるネックの下がりです。ネックが下がってしまうのは何か作りに欠陥があって起きるのではなく、仕方のないことです。急に下がってしまうのは置かれていた環境に原因があるかもしれません。
戦前に作られたような楽器では多くの場合問題があります。
指板も薄くなっているので指板を交換することでも最大2mmくらい高くすることができます。しかしこのケースでは指板だけではダメそうです。
そこでネックに板を張り付ける修理をしました。

さらにニスの剥がし方も中途半端で隅っこに多く残っています。これを完全に取り去るのに丸一日かかってしまいました。剥がすならちゃんと剥がしてもらいたいものです。
おそらくもともとのニスはザクセン特有のアンティーク塗装だったと思われます。ラベルは偽造でフランスの作者のものがついています。

木材の質は高いもので仕事も悪くはありません。ニスをはがしてみるとすでに色がついています。これは染めてある部分もありますが、おそらく100年くらいは経っているでしょう、木材自体も変色して色が濃くなっているでしょう。つまり100年経った楽器でニスをはがすとこんな色になっているのです。白木とは全く色が違います。これならそんなに色を塗らなくてもいい感じもします。

二日間で7回アルコールニスを塗ってみました。黄金色になりました。ニスは樹脂自体にうっすら黄色っぽい色があります。黄金色は何もニスのことを分かっていない人が、イタリアやクレモナの楽器の専売特許のように言いますが、なんてことは無いです。古くなった楽器にうっすらと黄色いニスを塗ると黄金色に見えます。
ニスが剥げてしまったような古い楽器に保護のニスを塗ったりもともと薄い黄色やオレンジの楽器の楽器では黄金色に見えます。南ドイツでは黒っぽい楽器が多いですが、ザクセンのオールド楽器では黄金色のものがあります。クレモナの楽器は秘伝の処理してあったわけではありません。

私もこれで完成でも良いかなと思っていましたが…。表面には刷毛の跡がついていて滑らかになっていないので研磨しないといけません。そこで目の細かい耐水ペーパーで研磨すると木の地肌が露出するところが出てきました。つまりニスの層が薄すぎて削ったらなくなってしまいました。7層くらいでは薄すぎて保護の層もできていないことになります。その理由の一つとして、古い楽器では杢の強いカエデ材は段々うねってきます。洗濯板のようになってきます。そうすると山になっているところが先に削れて地肌が出てしまうのです。表板も年輪の木目を凹ませるような仕上げになっていたので
夏目(木目の白い所)のニスが無くなってしまいました。

やはり簡単にニスを塗るというわけにはいかないようです。そこで考えを変えてある種のアンティーク塗装をやってみようと実験台にしました。これは今までも成功したことのない手法です。

さらに20回以上うっすらと汚れを模した色を付けたニスを塗り重ね、研磨すると自然と汚れが付いたようになりました。

写真ではうまく写っていませんが古びた感じになったのは分かるでしょうか?

ニスが無くなって台無しになっていた楽器が戦前の楽器のようになりました。わざとらしく傷や汚れを付けたわけではないのになんとなく古い感じがするでしょう。私が研究しているのは、どこがどうなっているのかわからないほどの微妙な汚れの付き方です。100年間手入れされている楽器は、汚れがついては掃除し、取りきれない部分が残り、ニスは補修され光沢を保っています。そんな感じがします。

微妙すぎて写真に撮るのは難しいのですが、これなんかでもただの新品のようには見えないでしょう。

裏板も上に層ができて色がつくといかにも着色してある染みのような感じが和らぎました。汚れもついていますが、どこにどれだけついてるかは微妙すぎるものです。これが人工的に汚れを描いてしまうとわざとらしくなります。

琥珀色のニスのモダン楽器のようです。

スクロールもわざらしく汚れをつけたというようなことは無いのですが全くの新品とは違います。そしてもともとの仕事も悪くないですね。

当初の予定ではちょっとニスを塗れば売り物になるかと思いましたが、結局29層もニスを塗らないと十分なニスの厚さが築けませんでした。自然の汚れの色というのは黒でも茶色でも無い灰色っぽいものです。やや緑っぽい方向性で、赤っぽいと茶色になってザクセンのイミテーションのように見えます。いずれにしても2~3回くらい塗ってもダメで20回くらい塗って研磨をすると削れやすい所と削れにくい所に差ができて自然と汚れが残ったようになりました。もしこれを普通の新作楽器にやろうとしたらまず20回くらい塗って色を付けて新品として完成させてから汚れを20回塗らないといけません。普通よりも倍の仕事量にはなるでしょう。真剣にアンティーク塗装をやるにはよくあるようなものとは全く違う考え方が必要です。

こうして天然樹脂のニスで汚れも再現することでニスは戦前のハンドメイドの楽器のようななりました。同じニスを全くの白木の楽器に塗ったのではここまではいかなかったでしょう。
その結果つける値段は迷います。予想よりもはるかに立派なものになってしまいました。ニスはそれだけ重要だということです。

これならザクセンの量産品の上級品を集めてニスを塗り直して偽造ラベルを貼って10年くらい貸し出して使い込ませればモダン楽器として通用しそうです。

というのは使い込まれている楽器は手入れのために磨き上げられたり、保護のためにアルコールニスでコーティングされていたりするので全体を同じような処理をすれば似たような雰囲気が出ます。

未だに仕事は初めに予測したことと結果が全く違います。

一方で間抜けな話もしましょう。ネックの下がりを直すため修理では指板を交換するか、くさびとしてネックに木材を足すかどちらにするか悩んだ結果、くさびを入れることに決定しました。指板はまだ古いものが使えると思いました。現在では木材、とりわけ黒檀は貴重な資源なので中古品を修理して売り出すからと言って必ずしも交換はせず、できるだけ使えるところまで使うのがエコなのではないかと思うのです。それで指板は古いものを使うためにくさびの修理を決めました。

しかし出来上がって元の指板を貼ったあと、削り直し見ると思いのほか薄くなってしまいました。これでは売りに出せません。

結局新しい指板に交換しました。

未だに仕事はこんな事ばっかりです。始めてみると誤算ばかりです、これは見積もりを取ったような仕事ではないので良いのですが、思いのほか手間がかかってしまいました。
職人の仕事が儲からないのはこんな事ばかり起きて予測ができないからです。いつも思っているよりもはるかに手間がかかってしまいます。逆はめったにありません。

この前紹介した楽器で現代のものです。


普通は軽いアンティーク塗装というとこういう感じです。でもこれでは古く見えません。うっすらと汚れている感じが無いのです。

それが今回は剥げている部分を塗り分けていないのにこんな感じです。これのほうが古く見えることでしょう。

思いのほか立派に見えるようになったのですが、表板を開けて厚みを変えたりバスバーを変えたりしなかったのがもったいないくらいです。100年くらいったったザクセンの量産品の上級品を「魔改造」すれば音響面でも新作楽器をはるかに超えたものになるでしょう。ニスが楽器の印象に与える影響が大きくパターン化したアンティーク塗装の手法によってザクセンの楽器に見えていたことになります。天然樹脂のニスになってハンドメイドの楽器のように見えます。

100年くらい使い込まれた楽器がそのように見えるのは、木が古いことと損傷、汚れと手入れの積み重ねによるものでしょう。オールドの名器が立派に見える大きな原因の一つは秘伝のニスや天才的な技量ではなく「汚れ」です。それを再現するのがいかに大変かというのが今回の実験で分かったことです。まだまだオールドには程遠いものです。


日本の業界の特徴としては職人に払われる対価が安く、輸入した楽器や弓の販売で利益を上げる仕組みになっていることでしょう。聞くところによると弓の毛替えの費用は日本の方がはるかに安いようです。これは職人の仕事に対する対価が軽く見られていて、アフターサービスくらいに考えているからでしょう。
ブランド産地の毛で値段を上げてようやくまともな毛替えの費用になっているのかもしれません。

父親が持っていたアナログのカメラを日本で修理に出したときも丁寧な仕事なのに驚くべき安さでした。こちらで修理したらはるかに費用が掛かったことでしょう。日本の職人が良心的すぎることもあります。

こちらのようにものの値段が職人の作業時間を基に計算されると高価ではありますが、べらぼうにはなりません。弓では一週間の仕事の対価としてどうか考えてみてください。日本の弦楽器店はそのような基準では値段を考えていないようです。あくまで需要と供給による市場価格で考えています。消費者が「高いから良いものだ」という考え方を受け入れているとそのようにしかなりません。良いものが欲しいお客さんの期待に応えるためには値札の数字を増やせばいいのです。それを説明する理屈をでっち上げるとそれに矛盾させないための理屈が構築され何もかもが滅茶苦茶になってしまいます。そのようなウンチクを熟知した「超専門家」にならないように気を付けてください。