「超専門家」と弓の話 | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

こんにちはガリッポです。


弓用の毛が入荷しました。安価なものが供給に遅れが出ているようです。これは中国産でうちでは初心者用に使っているものです。

左が今回入荷した中国産のもので右がモンゴル産の上級品です。色がまず違うのが分かるでしょう。毛もモンゴル産のほうが細くきめ細かいものです。こちらでは上級品と考えられています。モンゴル産にもランクがあり、これは入手しうる最上級品です。

馬の毛が最も多く使われているのは紳士服の内側に入れて型崩れを防ぐ芯地と言われる生地だそうで、馬の毛でできているものがあります。
その他ブラシや筆など様々な用途で使われています。こちらでは小学校の図工の授業で使う筆がそれのようですし、ホームセンターに行けば塗装や接着剤を塗るための筆が売られています。うちでもにかわの接着剤用に使っています。にかわを塗るときに腰があるので隙間に筆先を入れるのに便利だったり、溢れたにかわを掃除するのに適しています。日本に帰って作業するときに手に入らなくて困るものです。楽器を掃除したり奥まった所のニスを研磨剤とともに研磨することもできます。

そのような用途では質の低いものでも良いかもしれません。質だけでなく長さによっても値段が大きく違います。ケチって短い毛を買うと届かなかったり毛替えの作業がやりにくくなります。

それに比べると上等なものが弓用として使われています。毛の産地としては、モンゴル、中国、シベリア、カナダ、日本などが知られていますが、実際にこちらの卸売業者が取り扱っているのはモンゴル、中国、シベリアくらいです。モンゴル産にはランクが3~4段階くらいあります。イタリア産などは聞いたこともありません。

しかしうちでは産地のイメージではなく、毛の質で選んでいます。
弦楽器に限らず浅いマニアは産出国のイメージで思い込みを持つ人がいるものです。日本の弦楽器業界が重視してきたことで、こちらにいると理解できないことです。都会の方が流行に敏感で、しのぎを削る音大生の間で何かが流行することもあるでしょう。そういう意味ではこちらの方が古いということもあるかもしれません。それもまた音楽の楽しみ方として肩の力が抜けたものでもあります。


質問をいただくと、何を知りたがっているのかわかるので参考になります。そうすると日頃から注目するようになるでしょう。ただし程度の問題で次々と質問をされると答えられるかどうかわかりません。

よく工場見学のようなことが勤め先では要望が来ます。先日は大学の先生と学生でした。先日横板をカンナで加工するのはとても難しいと書きました。それに対して木工技術の知識のある学生に「なぜ機械で加工しないのか」聞かれて師匠は答えに苦労していました。教育の一環として来ているので合理的な説明が求められる暗黙の了解があります。西洋では慣習としてそういうものだというのは許されません。なぜ機械ではうまく加工できないか説明しないといけません。
しかしうちには機械が無いので、機械を使った時にどんな問題が出るかもわかりません。

なぜ機械が無いかと言えば、大量生産の工場ではないからです。ヴァイオリンとは全く違うジャンルの木工の業界の人に説明するのは全くの素人よりも難しいです。具体的な技術の問題ではなく根本的な問題です。伝統的な技術を持っていることで、オールド楽器などの修理を任せることもできるし、そのような名器に匹敵するものが作れるということになります。他の産業では伝統的なものと比較されません。この説明も今思いついただけで怪しいです。横板を加工するという具体的な問題ではありません。単純に最新の機械を知らないというのが正直なところでしょう。私の場合には手作業が面白くてヴァイオリン作りをやっています。機械でやらないといけないというのならストレスになります。楽器の演奏も同じでしょう、コンピュータで自動演奏したほうが正確です。

おそらく回転式の研磨マシーンのようなもので隙間があって、そこを板を通すとその厚さになって出てくるというようなものでしょう。工場製の楽器には枯山水の庭のように研磨傷のような筋が入っていることがよくあります。これをスクレーパーで削り取ろうとするとカンナで削ったほうが早いです。工場製の白木の楽器にニスを塗る作業を担当している私にはわかります。

機械特有のひっかき傷が横板に残っていても音には影響はありません。音にしか興味が無い人に職人が労力を費やしていることを分かってもらうことはできないでしょう。

質問に答える難しさはバックグラウンドの共通理解にもあります。2時間程度の工房見学で細かい具体的なことを理解するのは不可能です。10年は働かないと分からないでしょう。なんで工房見学のような無駄なことをするのかと私は思うくらいです。
職人でも楽器以外のことになんでも興味を持って自作したり修理したりする人がいますが、私はヴァイオリンだけで精一杯です。おもしろいのは分かりますが、やり出すときりが無いのが分かっているので手が出せないです。
観光客ともなるとなんの意味があるのかと思います。私はそれらを「知るエンターテインメント」と考えています。娯楽として楽しめれば良いというわけです。

本当に理解したいならまず知るべきことは具体的なことではなくバックグランドとなるような理解です。その方が難しいです。素人やマニアほど細かいことにこだわって、本質を理解できないものです。だから何も知らないほうがましなことが多いです。当ブログで行っている主なことは、知らないほうが良いウンチクを根拠を示して説明しています。

つまり私が書いていることの趣旨は「あまり気にするな」ということですが、それを無視して根拠を示すために書いた一部の記述ばかりに興味を持って読みたいように読まれてしまいます。何かに興味が強いと国語のテストで問われる「作者の言いたいこと」が全く理解できない人がいます。論旨ではなくてエサに食いついてしまうのです。書けば書くほど余計なエサを撒いてしまいます。
そのような人をうちでは直訳すると「超専門家」と呼んでいます。「超」というのはオーバーワークの「オーバー」のような意味です。
つまり、細かいことを気にしすぎて他に気を付けることや全体的なことが全く分かっていない様子です。特定のことだけで頭がいっぱいでそれ以外が留守になっています。私もそのような過ちを多くしてきました。

演奏者は個人的に様々なこだわりがあります。先生によっても違います。だから私は
その人の自由にさせています。弓などはまさにそんな世界です。

高いアーチの楽器は柔軟性が無いから弓は柔らかいものが良いと考えることができるかもしれません。しかし腕の良い演奏者は普段フラットな楽器を使っていても難なく弾きこなしてしまいます。そうかと思えばフラットな楽器特有の弾き方を身に着け、高いアーチでは音が潰れてしまう人もいます。
お客さんでは音楽の時代によって弓をいくつも持っている人もいます。室内オーケストラでは小規模な編成になるでしょう。古典派は特に得意ジャンルでしょうが、現代曲も弾くことはあるでしょう。時代よりもオーケストラの編成と人数の問題です。古典派なら柔らかくて軽めの弓、ロマン派で特にソロ曲なら硬めで重い弓なんてこともあるでしょう。
でもそれは私が言うことではなくて、先生が言うことでしょう。

弓もだんだん進化しているので古い時代のほうが柔らかくて軽い傾向があって、経年変化も音に関係がありそうです。それも私が試して個人で感じることなのか、一般知識として言って良いのかわかりません。だからヴァイオリン職人としては加工の質がどうで、材料がどうだとかそのくらいしか言えません。すべての弓で音と使い勝手が違います。同じメーカーでも一本一本みな違います。選ぶのは自由です。

弓について知るべきことは、生産国や値段とか名前ではなく、手に取ってしっくりくるものを選ぶべきということです。

弓には重さがあります。これにこだわり始めると重さが何グラムだと気にします。しかし持った感じの重さと測った重さは違うかもしれません。重心の位置によっても重さが違うように感じられます。何グラムかの数字で弓を選ぶ人は「超専門家」です。メーカーで同じように作っても微妙な違いが出ます。弓では特に仕事の正確さが大事であることは分かるでしょうがそれよりも人間の感じ方のほうが敏感でもあり鈍感でもあります。しかし重さの数字が気にいらないという理由で弓を手に入れるチャンスを逃していたらもったいないです。

うちの店では最も安いヴァイオリン弓はカーボン製で2万円位です。それより安いものは毛替えをする値打ちがありません。木製で材質がひどい物よりはカーボンの方がましです。カーボン弓は当初はとても軽く演奏感が全く違う物でしたが、プラスチックでコーティングされ重さが木製の弓と同じなっています。
よく物置から古い楽器が出てきて持ち込まれますが、楽器と同じように弓も大半が毛替えや修理をする価値のないものです。またセットで数万円の中国製のものでは、弓が悪すぎて練習するのにかなり厳しいと思います。
数万円では木製も大量生産品があり、機械を多用しています。大量生産品でもランクが細かくありメーカー名ではなくグレードを見ないといけません。その辺の見極めは私は自信がありません。ヴァイオリンでも量産品の中のグレードの違いを見分けるのは難しいです。

そうなると10万円位で作者名が無いものでも品質が良いものならはるかにましで、弓と人によってはばっちり当たる事もあるかもしれません。まさに掘り出し物です。

うちではそんな感じで新品よりも中古品が多いです。20世紀前半のマルクノイキルヒェンの大量生産品で作者名が無かったり、トルテの印があるようなものはヴァイオリン弓で最高でも10万円位ですが、品質が悪くないものもあります。
マイスターの名前がつくものは20万円位からになります。20~30万円くらいでもヴァイオリンの先生からすると、生徒でもっとひどいものを使っている人が多いので良い弓だと言ってくれる人がいます。プロの演奏者でも使っている人がいます。しかし個人的な好みで理想的なものを探せば際限がありません。製造工程からすると一本一本を芸術品として作っていたのではなく工場として品質の高いものを作っていたという感じでしょう。

こちらでは古い弓が主流なので弓職人も自分で作るよりも修理などの仕事の方が多いでしょう。ヴァイオリン職人の手に負えない複雑な修理をすることになります。

それから鑑定が大事で、ヴァイオリン職人や営業マンが勝手にそう思うという程度では価値は保証されません。ニセモノはもちろんありますし、下請けのような形で別の名前で売っていたものもあります。大したもんで鑑定士は真の作者もわかるようです。ドイツ弓の鑑定士にうちの師匠が妙にかわいがられて今は鑑定が確かなものが多くあります。それとていつまで続くかわかりません。私にはみな同じように見えて誰の弟子だとか何かのモデルなのかが分かりません。ヴァイオリンでも同じことで、それが分かるのはヴァイオリンを作っている職人でも一部の人だけです。私は弓を作っていないのでまったく分かりません。作ると作らないとでは目には大きな差があるでしょう。作るためには多くの知識が必要で、何百回も見ます。眺めるのは誰でもできます。センスの問題ではありません。

「寸法表」の話もこの前初めてしました。
様々な工業製品に寸法表というものがあります。例えばねじでは長さや太さなど各部の寸法が決まっていて、サイズごとに表になっています。これが規格になっているので別のメーカーの作ったねじでも使用できますし、ねじ回しの工具も専用のものがあります。こういうのは当たり前のようでも規格が統一されているというのはすごいことです。弓では異なる規格のネジがあり、回転してフロッグが前後する速度が違います。間違えて使うとネジ穴が壊れます。あご当ての金具のネジも互換性が怪しいです。

服でもサイズは各部の寸法が事細かに定められているので工員や職人がサイズの違う服を作ることができ、消費者は自分のサイズの服を買うことができます。職人が自分で試着して服を作っていたら自分用の服しか作れません。寸法表によってあらゆるサイズのものを作り分けられます。
西洋と日本では体格が違うのでサイズが違います。そういう意味では統一されていません。
同じメーカーが同じ寸法表を使っていれば、別の服でもサイズを見て買うことができるわけです。それでも微妙なものは試着してみないと分かりません。

これと同じように弦楽器もサイズごとに細かく寸法が規格化されています。子供用に細かくサイズ違いがありますが、ヴァイオリンとビオラやチェロも寸法表に従って作られるサイズ違いのようなものです。
このような規格があるのでヴァイオリンやチェロを持ち換えても弾くことができますし、ビオラでは服を選ぶように体格で楽器を選ぶことができます。

職人は基本的にはこの規格に従って仕事をします。規格に対して正確な人とそうでない人、仕上げが綺麗なものとそうでないものがあります。
ヴァイオリンなどはそんなレベル作られています。弓も各部の寸法が細かく決まっていて師匠から学ぶものだと思いますがどうでしょうね。

楽器も弓も同じような規格で作られても実際に使ってみると音や演奏感が微妙に違います。好きなものを選べというだけです。

私がやってるのはそのような規格に対して疑問を持ち始めたくらいです。結論ではありません。また西洋の規格なので日本人には合っていないかもしれません。



とはいえコロナ対策でマスクの件でも西洋の人は全然規律を守りません。規格があっても緩くしか守られず品質も様々です。規格をまじめに勉強しておらずボディストップが間違っていて使えない楽器も多くあります。規格自体も完全に統一されていません。国ごとに法律のように統一されていることもありませんし真面目に守られてもいません。音にはっきりした違いが出るレベルではありません。どうせ中国人の手に渡ります。
彼らは日本人ではないので自分たちの考え方で推測しても意味がありません。日本の職人でまじめで腕が良い人は規格通りにきちっと作るでしょう。でも不真面目な人はどこの国にでもいて作るものは発想が似通っています。