ニスのメンテナンスについて | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

こんにちはガリッポです。

弦楽器はメンテナンスが必要なものです。日常生活で定期的に修理に出すようなものはあまり多くないかもしれません。普通は10年~20年もすれば新しいものを買うからです。
一つは500年前に設計されたものであること、製品の寿命が長いので手入れを続ければ何百年も使えるということでもあります。

弦楽器でも痛みや汚れ方には個人差がとても大きいです。1年でも「荒れ放題」になる人もいれば20年使っても新品のような人もいます。

音や演奏に関わる部分と見た目の美観に関わる部分があります。もし見た目を綺麗に保ちたければお金がかかります。それも長く放置するほど直すに余計にお金がかかるようになるわけです。


特にチェロのエッジは傷みやすいものです。横にして置くからです。しかしかと言って金具をつけたりゴムをつけたりすることはありません。壊れたら元のように直すだけです。

このヴァイオリンも修理しました。これは運よくマッチする古い木材があったのでうまくいきました。普通はこんなにうまくいきません。しかし新しくつけた木材も数年もすれば古くなっていくことでしょう。

特に難しいのはエッジの部分のニスが剥げているように作られたものです。新しくつけた木材が白すぎるのですが、ニスの色を他の部分と合わせることはできても、木材の色を合わせるのは難しいからです。

持ち主は壊れたエッジには自覚症状があってもニス全体が汚れていることには気づいていません。毎日少しずつ汚れや傷みが進んでいくからです。

せっかく壊れたエッジを直すなら、ニス全体もきれいにしたいところです。この作業がエッジの修理よりも手間がかかることがあります。お客さんはエッジが壊れたことに心を乱していて、ニスの汚れには意識が働いていません。

このためエッジの修理よりもニスのメンテナンスに手間がかかることがあります。

エッジの修理は予想外にうまくいきましたがこの楽器では裏板下の方ニスがはがれていました。1990年代にアンティーク塗装で作られたもので初めからこのように塗装されたものです。しかしニスがはがれた様子を模した部分のニスが薄くて層が無くなり地肌が露出しているのです。フルバーニッシュなら20~30年でこんなふうになることはないでしょう。
エッジの修理は3日も有れば十分でしたがこれは厄介です。

表板も横板も同様です。ニスがはがれたように塗装してある所のニスが薄くて地肌が露出しています。現代のハンドメイドのアンティーク塗装の楽器にはよく見られるもので、製品としての耐久性も考慮されていないようです。現代美術と同じでできた瞬間しか考えていないようです。
このようにニスの層が薄すぎるアンティーク塗装の手法があまりにもよく見られるので私は「流行の手法」と考えています。
理屈で考えればニスがはがれている部分を修復するには新しい楽器にニスを塗るのと同じだけ塗り重ねる必要があります。新作なら乾燥させるのも含めて1か月かかってもおかしくないでしょう。それくらい大ごとなのに持ち主は頭にありません。
すぐに演奏を再開したいようです。

そこで応急処置をするのですが、3日あるなら2日で数回ニスを塗って最後の日に磨き上げれば美観としては完成します。
ところがこの楽器では皮脂などが木の表面にこびりついているせいか、ニスを弾いてしまって塗っても塗れないのです。このためあの手この手で20年の経験で得たトリックをフルに投入します。試してはダメ、試してはダメで3時間作業をしても何も変化が無いどころかもとより悪くなっているのではないかということもあります。
何も進展しない作業時間も修理代金として請求すれば数万円になります。その末にできたニスの光沢もとても薄く危ういもので、すぐに失われるでしょう。また次に修理に持ってきてもまた同じことの繰り返しです。
はじめからちゃんとニスを塗って作っておくべきで、罰として作者本人に修理してもらって欲しいです。

ニスのメンテナンスについてはうちの工房では、駒や魂柱交換などの修理があるとサービスで行ってきました。しかし実際には駒や魂柱交換よりも手間がかかることがあります。代金としてすべての作業を請求するととんでもなく高価になります。駒が傷んで交換を依頼した場合にとんでもない高額な代金が請求され騙されたと思う事でしょう。
この辺があやふやなのが問題です。サービスが無償になってしまう温床です。

「ちょっとニスを綺麗にして」と指示されてもちょっとだけきれいにするというのができません。汚れを擦るとニスの質が悪かったり、風化しているとニスごと剥がれてしまいます。

ニスには見た目に限っても主に「色」と「厚み」と「光沢」の3要素があります。修理する場合にはこの三つを他の部分とマッチするようにしないといけません。
厚みを稼ぐのは耐久性のためにも必要ですが、ヘコミなども穴となりますで、厚みを稼がないといけません。これはとても時間がかかる一方、古い楽器では無数にヘコミがあるのが普通なのでそれほど気になりません。メンテナンスで特に問題なのは光沢です。弦楽器は表面がピカピカに磨かれていることで完全な状態となります。なぜそうなのかははっきりしませんが、紳士靴と同じです。同様の上流階級の文化だったはずです。つまりピカピカに磨くのは個人の趣味だけでなく礼儀作法のようなものでしょう。ウィーンフィルのニューイヤーコンサートでは楽器がピカピカになっています。その日に向けて手入れが行われているからです。

光沢があるのはニスの表面が滑らかであることで、光が反射してそう見えます。ニスが無くなっていれば光沢は無くなってしまいます。ニスがあっても表面が細かい凹凸で覆われているとすりガラスのようになります。その原因はいろいろあります。ニスが風化したり、しわができたりして光沢が失われることがあります。新しい楽器のアルコールニスなら一度は滑らかな表面に仕上げたものもアルコールが蒸発して痩せ、下地の凹凸や研磨した跡が浮かび上がってくることもあるでしょう。皮脂や松脂などの汚れが表面に付着していることもあるでしょうし、水分と反応して曇ってしまうこともあります。柔らかいニスなら手で触っただけで光沢が無くなるものもあるでしょう。

再び光沢を取り戻すには表面を「研磨する」、「溶かす」、「上から何かを塗る」などが考えられ、またそれらを組み合わせることができます。アルコールニスならアルコールで表面を溶かすことで滑らかさを取り戻すことができます。しかしアルコールが蒸発するとまた光沢が無くなってしまうかもしれません。
研磨する場合は丈夫でしっかりしたニスほど効果があります。ラッカーやアクリルのようなニスではアルコールではあまり溶けないため研磨剤の方が効果がある場合があります。スプレーで分厚くクリアーが塗られた安価な楽器では塗りたてのようなピカピカにすることができます。そうなるとかえって安っぽく見えてしまうもので困ったものです。
オイルニスも成分によってはアルコールに溶けないことがあります。ニスの質が丈夫なら研磨すれば光らせることができますが、もろくなっていると研磨剤で擦ってもボロボロと剥がれていくだけです。消しゴムの様な表面をイメージするのも良いでしょう。この場合は上から何か塗らなければいけません。モダン楽器ではこのようなケースは多く、オリジナルのニスがむき出しになっているのではなく何かが塗られていることが多いです。それも年月が経って剥がれ落ちていることもよくあります。

一つの例としてはまず汚れを取り、細かい研磨剤で下地をできるだけ滑らかにすること、その上にごく薄いアルコールニスをフレンチポリッシュという手法で塗布するなどが考えられます。完全にニスが失われているところは塗って厚みを稼がないと使用中や次に掃除したときになくなってしまいます。
もっと多がかかりな修理では上から全体にクリアーのニスを塗ります。一度塗っておけばしばらくは新品の楽器のようにメンテナンスも楽です。


さっきのチェロは戦前にシェーンバッハ(現在のチェコのルビー)で作られたもので300万円はするなかなかのものです。15年は放置され荒れ果てていてました。エッジがボロボロになっていたので師匠が今直さないともっと修理代が高くなると説得して修理を開始しましたが、ニス全体の方が手間がかかります。これも無償のサービスになってしまうのでしょうか?
このチェロではニスを弾くことはなく剥がれた部分に薄い層で塗って磨き上げるだけで光沢が戻りました。しかしニスが残っている部分で汚れがひどくこれを取るのに時間がかかりました。汚れがこびりついているのに激しく擦ればニス自体がはがれてしまいます。このため優しく長い時間擦らないといけません。チェロは面積も大きいですから、作業時間は莫大になります。

メンテナンスの方法は楽器によって違い、その都度いろいろ試してみないといけません。自分の会社の製品ではないからです。やり方をマニュアル化することができないのです。そうなるとやった作業が無駄だったことも出てきます。

このチェロでも行ったのは応急処置でしかないのでまた次も同じことの繰り返しです。

皆がニスのメンテナンスを甘く見てきたせいでビジネスとして成立していないのです。これを成立させるためには、長い修理期間と金額をかけてしっかりと修復すること、修理のノウハウや材料を開発することが必要だと思います。私が東京でその専門店を作っても仕事は十分にあるでしょう。しかし現状では何かの片手間にやっているにすぎません。
一方量産楽器ではもっと簡単な方法も必要でしょう。現状では量産楽器用に特別な修理法は無く骨董品のような高級楽器と同じような修理を施しています。何台も一度にスプレーでバーと吹き付けておしまいとするような作業場が必要です。


90年代にハンドメイドで作られたヴァイオリンですが、物は悪くはありません。アマティのような丸みとストラディバリモデルのようなサイズ感もあります。何かのコピーではなく作者自身のモデルと言ってもいいかもしれません。現代の職人が形を整えていくとこうなるでしょうね。逆に言うとこうにしかなりません。今の腕の良い職人がデザインすると欠点が無く整っていくだけで、オールドのようなへんてこなものはできませんね。
しかし問題はニスの薄さです。荒い木目の表板に年輪の凹凸が残る仕上げになっているので擦れてはがれやすいのですが、陰影をつけるという手法色分けしてぬられています。

ニスがはがれたところも突然そこだけ剥がれているようで不自然です。作風も現代的でおよそオールド楽器には見えません。

何か実際のオールド楽器を観察して塗装したのではなく、手法としてのアンティーク塗装を頭で考えたからでしょう。

私はこのようにニスがはげたところを薄く塗る「陰影をつける」というのとは違います。オリジナルのニスが残っている所のほうが少なく、ニスがはがれたところの方が多いという設定です。このため剥がれている部分もちゃんと塗っています。そっちがメインのニスです。

ニスは薄い方が音が良いという人もいますが、そのような楽器を買う場合メンテナンスの代金を確保することを忘れないようにしてください。「3時間作業しても進展なし」という修理を毎回やることになります。その分の代金を貯金しておいてください。

これはモダン楽器などでも言えることです。100年くらいすると風化してもろくなっていたりして、汚れを取ろうとするとニスまで剥げてしまいます。このためこれ以上オリジナルニスが損なわれないためと、光沢を保つためにコーティングを施す必要があります。このような処理をすれば音が多少は変わります。音がどうなるかなどは分かるはずがありません。美観を保つために施す作業だからです。これで「以前より音が悪くなった」と職人の腕を低く評価されたらたまったものではありません。以前より音が悪くなってもトータルとしてはまだまだ新作楽器よりも鳴りが良いと考えるべきです。物事が一長一短であるというのが「技術的な思考」というものです。

このためにも、音は関係ない弦楽器の美容整形として営業できればいいのですが。

一方フルバーニッシュのニスでは修理はとても大変です。新しいうちは傷がとても目立つのです。表面が滑らかに仕上げられているとヘコミが目立ちます。へこんだところにニスを塗るとそこだけ濃く見えてしまいます。穴を埋めるのは容易ではありません。作業がシビアであるだけでなく日数もかかります。フルバーニッシュでニスの層が薄いと「沼」です。そういう意味ではアンティーク塗装のほうが楽です。人工的に傷をつけた楽器では、その傷が一つ増えるだけだからです。しかしアンティーク塗装でもニスの層が薄く、すでに「100年経った状態」ではメンテナンスもアンティーク楽器並みに大変です。肩当無しで弾く場合もメンテナンスの修理期間を覚悟しておく必要があります。

誰もがニスを軽く見ている事が大きな問題です。正当な修理代を請求すればあまりに高額でヴァイオリン工房に訪れることすらためらわれるかもしれません。一方職人の仕事は複雑多岐にわたりニスの補修だけに専念することも難しいです。また同時にたくさんの楽器の補修をしようとすれば、頭の許容量を超えてしまいます。一つ一つ全部やり方が違うのですから。どれのどこをどう直していたかも忘れてしまいます。