裏板の魂柱傷の修理 (前編) | ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

ヴァイオリン技術者の弦楽器研究ノート

クラシックの本場ヨーロッパで職人として働いている技術者の視点で弦楽器をこっそり解明していきます。

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今回はヴァイオリンの裏板が割れてしまったトラブルです。

愛用のヴァイオリンの裏板が割れてしまったのですが、職人に見せると「直すことができない」と言われたそうです。

直すことができないのには二つ理由があるでしょう。修理が難しいという技術的な理由と、それだけのお金をかける値打ちがあるかという経済的な理由です。

経済的な理由は、修理代が楽器の価値を超えてしまう場合です。これは他の修理でも同様です。しかし今回のケースに限ると修理しても楽器の価値が下がるような重大な故障と考えることができます。

この割れが普通の割れと違うのは、魂柱の来るところにある「魂柱傷」であるということです。魂柱を伝って裏板の一点に弦の力が集中してかかる箇所だからです。
また裏板は骨董品的な意味もあります。裏板に割れ傷があるとコレクターの鑑賞ではマイナスになります。かつては価値が半分になるとさえ言われました。

この楽器は量産楽器の上級品で、骨董品の価値はないでしょう。一方量産楽器の場合他に同じような楽器がたくさんあるのでわざわざ裏板に「爆弾を抱えた」ヴァイオリンを購入する必要がありません。買い取る業者にしても、他に同じような楽器が買えるので手を出そうとしないでしょう。

一方技術的な面では修理方法が確立していて決して不可能な修理ではありません。表板に比べると裏板のほうが「ごまかし」が利かず、より精密に加工する必要があります。木材の硬さが違うからです。

もし同様の割れ傷が表板に起きた場合は、驚くことはありません。オールド楽器なら割れ傷があって修理されているのが当たり前です。何億円する名器でも修理されていて、表板の魂柱の部分などは消耗品くらいに考えて良いです。


このように裏板に魂柱傷のある楽器を売るとなると喜んで買う人はいないでしょうが、自分の愛用の楽器を使い続けたいのなら修理する値打ちは十分あります。オールドの名器でも希少性はどんどん高くなっているので裏板の魂柱傷があってもその楽器との出会いのほうがはるかに貴重です。
きちんと修理されていれば演奏家にとって実用上は問題ありませんし、逆にミュージアムのような資料的な価値にも問題ありません。気にするのは完璧さを求めるコレクターくらいで今では価値の半減と考える必要はないです。



技術的に修理ができないとすれば未熟な職人です。このような修理は初めてやる場合はとても難しいもので、教わる環境に恵まれたうえで困難をクリアーしないといけません。一度もクリアーできないと一生修理ができないということになります。口が達者なら商売人としてはやって行けます。しかしこのような課題をクリアーしたことがないと修理はできません。ヴァイオリン製作学校のレベルでは学ぶのは難しいレベルの修理です。したがってヴァイオリンを作れるというレベルでは修理はできません。職人のうち何パーセントくらいが直せるのでしょうか?

私の場合には幸い環境に恵まれたことがありますが、最初は何日もかかって進展があるのかないのかわからないような感じです。お店としても新人の教育に余裕が無ければいけません。


改めて傷を見てみます。
内側から魂柱で押されているために段差になっています。断層のようです。
表板は無傷でした。何が原因でこのようになったのかはっきりしません。普通は事故によって衝撃が加わって生じます。持ち主はそのようなことは語らず私には納得できませんでした。

私が見た感じでは過去にすでに割れ傷があり、放置されていたか簡易的な修理がされていたところに、弦の力がかかり続けてついにある時限界に達したのではないでしょうか?
傷の中央付近は新しい割れ傷ではないようにも見えるからです。

修理の決断

このような楽器が持ち込まれた場合に難しいのは決断です。
決断さえできればマスターした職人なら通常の仕事です。

このヴァイオリンは特徴からすぐにマルクノイキルヒェンの戦前の大量生産品だとわかります。その中では比較的品質の良い上級品です。量産品の上級品であると値段は50万円位は普通です。100年くらい前のもので、新作に比べると鳴りもよくなっているはずで、音響的に悪くなるような作りの粗さも見られません。職人から見て特に音が悪くなると断言できる要素はありません。
量産品だからダメというのではなく、物によります。見た目はまずまずでも、中を見るとひどい楽器がありますが、これはそうでは無く中もちゃんと作られています。それでも隅々まで完璧に作られたものではありません。

音が気に入っていたのであれば修理する価値は十分あるでしょう。

この場合、どうやって修理するかということになります。普通に考えれば裏板を開ける必要があります。裏板は表に比べると開けるのが難しいです。このため表板を開けることも考えられなくはありません。

しかし裏技的なことは考えずに真っ当な修理をしましょう。

最近の量産品は接着剤に合成接着剤が使われていることが多いです。いわゆる木工用ボンドです。これは非常に強力で裏板はなかなか開かないのではないかと思います。表板も同じなのですが、表板はボンドに破片が持っていかれて裂けることによって開きます。開くというよりは割っているだけですが。
これが天然のにかわで接着されていればそれほど強力ではありません。また古くなっているとにかわも弱まって比較的簡単に開けることができます。
これもまあきれいに開いた方でしょう。

なぜ開けなければいけないかと言えば、まず割れを確実に接着しないといけないからです。先ほどのように段差がありますから高さを揃えなければいけません。裏板を開けることで板の両側から作業できますから高さを揃えることもやりやすいです。

高さを揃えて接着するのが難しいです。

接着後です。この距離ではわかりません。

割れ傷所のニスに損傷があるので溝になって見えますが、接着自体はうまくいった方でしょう。傷全体のうち中央は古い傷ではないかと思います。

もう一度前の写真を見るとずっと長い範囲で割れています。接着後では中央のところだけが識別できます。

新しく割れたところは傷口が綺麗なので接着が完全になったということです。

割れ傷はすぐに治せばきれいに接着ができますが、時間がたつと板が乾燥して縮んでくるため隙間が広がっていき汚れがつまって黒くなっていきます。ひびが目立つようになっていきます。

これでニスを補修してしまえば楽器を買う時には気づかないでしょう。しかし、構造上力がかかるので見た目の問題だけではありません。

通常の割れ傷であれば木片を取り付けて補強することができます。

補強する場合には大きく厚い木材を取り付ければ丈夫になりますが、楽器全体としての柔軟性を損なってはいけません。傷で弱っている部分を補う程度の補強が必要です。しかし難しく考える必要はないです。小さな木片をつければ良いというだけですから。一方で神経質に考えることもありません。このような木片が大量につけられていても音が悪くなるというものではないからです。

一つでも木片をつけたら、作者の意図した音から変わってしまい台無しになってしまうのではないかと考える人がいたら神経質すぎます。楽器のことについては理解するセンスが有りません。木片が追加されようがどうってことはありません。細かいことを気にすることは楽器の理解とは焦点がずれています。

強すぎる補強をすると補強をしたすぐ隣がウィークポイントとなり割れの原因となりますので、板全体に衝撃が分散するような「しなり」があったほうが良いと思います。

ここで問題なのは木片を取り付けると邪魔になって魂柱が入れられないことです。魂柱の個所を避けて木片を取り付けると、割れに直接弦の力がかかることになり、傷が開いてしまいます。

このため魂柱パッチという特別な修理が必要になります。


修理の方法としては裏板をくりぬいて、新しい木材を埋め込みます。この時角を作るとそこがウィークポイントになりますから接着面は滑らかにカーブさせます。
よくある安上りな修理や昔の修理では、裏板をくりぬかずに薄い板を上から貼ってあることがあります。これでは補強が不十分であったり、オリジナルと板の厚さが変わってしまうことになります。図のように厚くすると魂柱を立てるのは至難の業です。くりぬいて新しい木を埋め込めば、元と同じ厚さにすることができます。また長年の使用で魂柱によって傷つけられた場合には復元することもできます。割れが直るだけでなく魂柱をぴったりとハメることができるようになります。

この時に問題になるのは「型取り」が必要になることです。裏板は柔軟性があり面は常に動きます。ぐにゃぐにゃしたものに正確に接着面を合わせるのは難しいです。もちろんほんのわずかで、一般的な木工なら無視できるレベルでしょう。弦楽器職人は全く次元が違います。

このように石膏で型を取るのがオーソドックスな方法です。これは古い表板で痛みも激しくふにゃふにゃです。
一方今回の裏板は魂柱に傷があるとはいえまだまだしっかりしたものです。
ここまで大げさなものは必要ないでしょう。
石膏で型を取ると準備のための作業が多いのと、型を乾燥させるの時間がかかるというデメリットがあります。これが大がかりな修理という印象を受け「修理する値打ちが無い」と判断される原因となるでしょう。簡単に型を取ることが量産楽器の修理では求められるわけです。

魂柱パッチの実技は次回


木工では意外と問題になるのは材木のしなりです。カンナをかけて正確な平面を作ろうと思っても板がたわんでしまいます。おおよそ4~5cm位板の厚さが無いとグニャグニャたわんでしまい正確に加工することができません。接着面を正確に合わせるためには接着面がグニャグニャ動いては基準がありません。

私は常に木材の柔軟性と付き合っているわけです。バスバーを接着する場合も表板がグニャグニャなのでそこにピッタリ合うようにバスバーを加工するのは難しいです。チェロの表板では自分の重さで形が変わるほどです。上の写真のように石膏の型を取ってバスバーを取り付ければ正確に加工ができているか確認できます。通常のバスバー交換ではそこまでやりません。そのためバスバーを取り付ける場合には両側に隙間を開けて加工します。

ともかく木材は柔軟性があるものだということは弦楽器について理解するにはとても重要なことです。バネの集合体が弦楽器というものです。弦も弓もみな弾力があります。バネ同士がうまく機能することで音が出ると考えるとイメージも変わってくることでしょう。理屈で予想が困難な理由でもあります。

実際の作業は次回に続きます。